残念な最期を迎えたヨハネ

最近はイエス様と同じ時代に生きたバプテスマ(洗礼者という意味)のヨハネという人物の最期について考えています。

ヨハネっていうと、旧約の預言ではエリヤがイエス様より先に遣わされることになっていて、イエス様の親族にあたるヨハネがその誕生の際に「エリヤの霊と力とをもって人々の心を神に向けさせる」と預言されたんだよね。
それで、ヨハネは成長して実際に人々にイエス様について「見よ、神の子羊。私が証したのはこの方のことである」と証言しながら悔い改めの洗礼を授けたんだったかな(ルカによる福音書1:17)。

そうそう、ヨハネは祭司の家系だったし、預言と共に生まれたこともあって人々が一目置いていて、かつその言葉には力があったために心を動かされて洗礼を受け入れたんだ。
それなのに最期は王の恋愛なんかに口を出して王に牢獄に入れられて、イエス様に対しても「あなたが来たるべき方ですか。それとも他の誰かを待つべきでしょうか」なんて言って、結局は王に処刑されてしまうじゃないですか。
イエス様はヨハネが生きていたならもっと人々から受け入れられたはずなのに、残念でなりません。

なにやら胸の傷む話をなさっているご様子。

!!
ν(ニュー)さん、いつの間に私の背後に…。また気づかなかったわ…。

普段は肉に見えず、気づかれないのが霊の強み。神はそのように絶対的に治められるのです。
バプテスマのヨハネがなぜ残念な最期を迎えたかということに疑問を持っておられるのですね。よろしい。このわたくしが自ら教えて差し上げましょう。
また、ヨハネといえば「エリヤの再臨」ということで、ついでにイエスの再臨についても少しだけ明かしてあげましょう。

やったー!是非是非!

(ピカッと変身)
では始めます。
イエスの弟子の方のヨハネが書いた福音書によれば、バプテスマのヨハネは最初の方から自分の役割を半端に表していたことが伺えます。
そこで、彼ら(祭司たちやレビ人たち)は問うた、「それでは、どなたなのですか、あなたはエリヤですか」。彼は「いや、そうではない」と言った。
「では、あの預言者ですか」。彼は「いいえ」と答えた。
〜ヨハネによる福音書1:19-22〜
そして、その後イエスとは別に弟子をつくり、イエスの証人としての自分を証するように弟子に話して、イエスとは別に行動していたことが聖書から見て取れます。
「わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である」と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。
〜ヨハネによる福音書3:28-29〜

ヨハネは自分に関する預言は知っていたんですよね?

父親のザカリヤも周囲の人も知っていましたし、人々はヨハネから続々と悔い改めのバプテスマを受けましたから、本人は分かっていたでしょう。
ヨハネは確かにエリヤがかつてアハブという王の時代にイスラエルの人々の心を神に取り戻したような働きをしました。
それにもかかわらずヨハネの態度が半端であったのは心理的なものがあったのです。

心理的なものって、ちゃんとやりたくない理由があったってことですか?

ヨハネが弟子たちを通してイエスに「来るべき方はあなたですか」と尋ねた際、イエスは「私につまずかない者はさいわいである」と言われましたね(ルカによる福音書7:23)。
ヨハネは祭司の息子で、当時のエリートです。一方、イエスは貧しい田舎の大工の息子でした。ユダヤの指導者たちが皆「田舎者」、「学のない者」と呼んで蔑んでいたのですから、親戚となればなおさら思うところがあったのでしょう。これについてはイエスご自身が「預言者は自分の故郷意外では敬われないことはない」とも言っていますね(マルコによる福音書6:4)。
使命をもらったからといって全うできるのではなく、ふさわしい心も備えていないといけないのです。

ヨハネの気持ちが分かる気がします…。
位置を離れてはいけない

ヨハネのようにならないためにはどうしたらよいのでしょうか?

ヨハネは自分の位置を離れることなく、イエスと行動を共にしてその行いを見て一層確信してイエスを証するべきでした。
しかし、実際には離れて行動するうちに歴史の真っただ中にいる感覚を失い、自らの使命を行うだけの確信や心意気が失われてしまったのでしょう。
歴史は自らが参加して神の御業を体験しないことには確信することができないのです。
再臨するイエス

最後に、イエスの再臨について少しだけ話をしましょう。

待ってました!

まずは訊いてみましょう。再臨するイエスはどのように来られると思いますか?

雲に乗って「安かれ」とおっしゃりながら、ゴゴゴゴゴって降りてくる感じかな。だって、イエス様は天に昇られたじゃないですか(使徒行伝1:9)。

イエスが天に昇られたのは確かですが、どこかわたくしが思い浮かべているものとは違う解釈をしているように思えます…。
まあ、それについてはNHCの聖書講座でもう一度学んでもらうとして、ここではヒントだけ与えて終わりにしましょうか。
旧約で律法を受けたモーセはエジプトにおける奴隷生活からの救いを待ち望んだイスラエルの民から出ました。
また、敵国による侵略や彼らへの隷従からの救いを待ち望んだ者の中から預言者や士師たちが出ました。
主イエスもまたどこから来たかというと、「来る」とおっしゃった神を待ち望んでいたユダヤ人の中から出ました。
では、イエスが再臨される時にはどんなことが起こると思いますか?

イエスの再臨を真実に待ち望む者の中から一人の人が出てくるんじゃないか、となりますね。

エクセレント!
そしてその人は単に肩書だけを持ってくるのではなく、その使命にふさわしい心、すなわち、キリストを待っていたはずのユダヤの人々からむしろ迫害されて、わずか三年で肉体を差し出さなくてはならなかったイエスの無念さや、人に向かう神の愛を悟って人々を救おうとしたイエスの心情を誰よりも理解して、イエスと思いを一つにして福音を伝える人でなくてはならないとも言えるでしょう。

あれ…、イエス様は来られるってことでいいんですよね…?

Yes。

(今「イエス」って言った…?)なんか、こんがらがってしまいました。聖書講座を学び直します…。

はい、というわけで、皆さんも自分の位置を離れることなく、他人の位置を羨むことなく、神が与えられた個性どおりに熱心に御言葉を行ってくださいね。