鄭 明析とイエス・キリスト
幼い頃からイエスを師として聖書を学んだ鄭 明析(チョン・ミョンソク、キリスト教福音宣教会創設者、牧師)は、青春も全て捧げてイエスを愛し、またイエスを唯一の主として仕えて生きました。
あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
ヨハネによる福音書5章39節
イエスがこう話されたように、聖書は私たちに人としてどのように生きるべきかを示す書物であると同時に、イエス・キリストについてつづったものでもあります。鄭はこの聖句のとおりに旧約から新約に至るまで、あらゆる聖書の箇所をもとにして私たちにイエスがキリストであるということを示し、かつイエスが私たちに手本として示された品性を教えています。 以下ではそのような鄭による数々のイエスに関する教えをもとに私たちが信じるイエス・キリストの姿の一端を紹介しようと思います。
キリストの系譜に関する預言とイエスの生い立ち
だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。
マタイによる福音書1章17節
イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。
ルカによる福音書3章23節
キリストの誕生は旧約の時代から預言されています。イエスは預言のとおりにヨセフの子としてダビデの家系に生まれ、幼少期から神の知恵と知識で溢れ、齢十二の頃にはエルサレム聖殿で教師たちと聖書について深く語り合い、その回答の賢さに大人たちは驚くほどであったとされています。そうしながらイエスは神にも人にも愛されながら成長し、齢三十の頃に福音(すなわち神の言葉)を宣べ伝え始められました。
(参考聖句:申命記18章15節~18節/イザヤ書7章13節~14節、11章1節~2節/マタイによる福音書2章1節~22節/ルカによる福音書2章21節~52節)
福音を宣べ伝え、「主が来られる」という預言を成就なさる
主は火をもって、またつるぎをもって、
イザヤ書66章16節
すべての人にさばきを行われる。
主に殺される者は多い
旧約聖書には「主は火と剣をもって来られる」という預言があります。ここで書かれた「火」とはエレミヤ書にあるとおり福音を指したものであり、イエスは火のように人生に光を灯す福音、火のように神に対する熱い思いを注ぐ福音を伝え、福音を聞いた人々が旧約の教えを一層悟り、神を愛するように導きました。
見よ、主は速い雲に乗って、エジプトに来られる。
イザヤ書19章1節
エジプトのもろもろの偶像は、み前に震えおののき、
エジプトびとの心は彼らのうちに溶け去る。
また「主は雲に乗って来られる」という預言も旧約聖書に見受けられます。この「雲」というのはへブル人への手紙によれば「神様、イエス様を信じて証しする人々である証人」のことであり、イエスはその福音を聞いて罪を悔い改めた多くの清い証人たちに囲まれながら過ごされました。
(参考聖句:イザヤ書11章1節~2節、66章15節~16節、エレミヤ書5章14節、ダニエル書7章13節、マラキ書4章2節、マタイによる福音書5章17節、ルカによる福音書12章49節、ヨハネによる福音書1章1節、14節、7章29節、4章25節~26節、へブル人への手紙12章1節、黙示録17章15節)
偽善ではなく、本質的な愛を重んじられる
偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか
ルカによる福音書13章15-16節
イエスは偽善と形式を廃し、根本である神の愛と御心を教えられました。例えば、律法には「安息日に何のわざもしてはならない」とありますが、この言葉の字面だけを見て安息日には病人も見て見ぬふりをするような形式的な信仰生活を送っていた人々を叱られ、「安息日は神に心を向け、神の喜びとなるべく過ごすべきである」という神の真意を汲まれて安息日にも人を癒すなど、神に喜ばれる多くの働きをなされました。
よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである
ルカによる福音書21章3節-4節
またある時は聖殿の賽銭箱の前で人々を観察なさり、多くの額を賽銭箱に入れた金持ちではなく、わずかでも心からの感謝で捧げたやもめ女の真実な心を認められ、弟子たちにそのことを諭されたこともありました。伝統や慣習を重んじる人々からは誤解されることが多かったイエスでしたが、その真実さと慈愛は接する人々の心を感動させ、人々を神に導く道となられました。
(参考聖句:ルカによる福音書13章10節〜17節、マルコによる福音書12章41節〜44節)
敵対する人々にも最後まで神の愛を示される
父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです
ルカによる福音書23章34節
イエスはユダヤの宗教の指導者から多くの迫害を受けました。相手の社会的な立場いかんを問わず、罪人とされるような人々にも愛をもって接したことで「卑しい人々、罪人の仲間」と呼ばれました。また病を患う人々を癒したり悪霊を追い出したりしたときは「悪霊の力によって行っている」と侮辱され、神の子たる生き方を示して神を「父」と呼んだことについても「自らを神と同等にみなしている」と非難されました。またイエスがその言葉と行いによって多くの群衆から認められると、ユダヤの宗教の指導者たちは嫉妬のゆえにイエスの命を奪うことを考えるようになり、自らもイエスを疑うようになっていた十二弟子の一人であるユダは金と引き換えに彼らにイエスを売り渡しました。身柄を預かった総督ピラトもまた、自身はイエスに罪を見出すことはできなかったけれども、群衆が求める通り十字架につける判決(極刑)を下しました。こうして無念にも十字架につけられたイエスでしたが、その十字架の上でなおご自身を十字架に掛けた人々の罪について神に赦しを求め、その時代のあらゆる罪を代わりに背負って犠牲となることで人々に救いの道を開かれました。
(参考聖句:マタイによる福音書12章22節〜24節、ルカによる福音書7章34〜35節、23章34節、マルコによる福音書15章14〜15節、ヨハネによる福音書10章33節)
終わりに
私たちはイエスが伝えられた御言葉と、イエスが命を賭して示されたその生き方を通じて、神様を信じ、愛することの意味と価値を学びました。私たちはそのイエスの教えを実践することで、愛と平和を成していきたいと願っています。 以下に私たちが大切にしている、イエスがご自身の全ての教えの根本として示された言葉を添えてイエスに関する紹介をしめくくりたいと思います。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。
マタイによる福音書22章37節~40節