イントロダクション
2018年、ある中年に差し掛かったNHC在籍の男が真理と街に徘徊するポケモンを求めて街を彷徨ううちに西早稲田の八幡神社に迷いこんでしまった。
そこでその男はせっかくだからと足を運んだ初詣の神ではなく、深い祈りと聖書の神との交感の最中に脳に天啓を受けたのであった。その天啓、神の啓示とはこうである。
今を生きる若者たちにこそ、New Harmony Churchのありのままの姿を伝え、そのスタバに向かう足を教会へと向かわせなければならない。
もちろん、教会の同胞(はらから)に初詣している姿を見られ、「それって偶像崇拝じゃん」と盛大に突っ込まれたらどうしようと少しドキドキしていたのは言うまでもない(彼にもたまには神社の静謐とした雰囲気に浸りたい時があるのだ)。
とにかく、若者たちにこそ、ここNHCに体現されている教会の真の姿を伝えたい。教会がいかに多様性に富み、各自の個性が生かされ、互を容認し、相互に助け合う素晴らしい環境なのかということを。教会は神の家であり、その無尽蔵の愛が惜しむ事無く降り注がれ、許しと導きに満ち満ちた今一番のパワースポットである(この事を知れたあなた、ラッキーなのである)。
落下して砕けた香ばしい鯖(さば)
とはいえ、一体私のような罪深き一信徒に一体何を伝えることができようか。そう、途方にくれていると何処からか鼻腔をくすぐる香ばしい香りが漂ってくる。
妻が夕餉に鯖を焼いている。この鯖はわざわざ新潟の市まで出向き仕入れてきた特別な鯖であり、言うならばレバノンの香木のような鯖。ふっくらとした身肉から滴る脂はまるで、主に捧げる香ばしい捧げ物を彷彿とさせる。
青銅の足の様に美しく焼きあがった鯖を、箸で皿に移すその時、私の手は件(くだん)の鯖をつかみ損ねる。 鯖はあえなくキッチンの床にこぼれてしまう。その様は居眠りして窓から落ちてしまうユテコのよう。
ユテコという若者が窓に腰をかけていたところ、パウロの話がながながと続くので、ひどく眠けがさしてきて、とうとうぐっすり寝入ってしまい、三階から下に落ちた。抱き起してみたら、もう死んでいた。
使徒行伝20:9
そして、キッチンの床は捧げ物の青銅の鏡のように磨きぬかれては、いない。これを黙示録風に言うならば、
「あなたは好ましい鯖であるが、元いた皿から離れてしまった」
とでも言えようか。
ともかく、抗う事無く身崩れした鯖を見ながら私はトウゴマの枯れたヨナの様に嘆き、そして神に問う、
「私は生まれなかった方が幸いなのでしょうか」。
これは、「新年早々神社参りなどしている信徒への裁きなのだろうか。鯖だけに」とは誰も言うまい。このままでは新年早々私はバチが当たったと信徒たちの集まりの中で嘲笑されてしまうのだろうか。
本論:聖書を学ぶことで得られる強さ
しかし不思議と私は自暴自棄に陥ることはなかった。これこそが聖書を学んだ一つの大きなご利益であると私は自負している。
聖書を学ぶとは、つまり「歴史を学ぶ」ということである。もっと簡潔にいうと、「良い時もあれば悪い時もあるし、それでもなんだかんだ最後は良くなるから悪い時もくじけちゃだめだよ」という事。
神と人類の織り成す歴史は、様々な失敗を繰り返しながらもその都度方向性を変えながら、常に神は人類がより良い方向へと、勝利する方へと光と英知を与え続ける。
この事を聖書を通して自分の事の様に知れるならば、それは自分の人生にも同じことが言えるのだと痛切に悟ることができるのだ。
確かに鯖は床に叩きつけられ、その身はもろくも崩れ去った。しかし私の心も崩れ去ったのであろうか?否である。
それほど柔らかく脂の乗ったサバであり、冷凍物の、半身で100円で販売されているサバとはワケが違う事をこの落下を通して私は知ることができた。そして米とともに鯖を飲み下す時の喜びは、空を紙とし、海を墨としても書ききれないほどであった。
神の愛はほむべきかな。なぜって?要は、鯖が落下したことによってむしろ鯖の価値を悟ったということではないか。
聖書の英知をまなんでいない過去の私ならば、激昂に駆られかのレバノンの鯖をゴミ箱に投機し、不平不満と自暴自棄にかられていたであろうか。
神の歴史を知る者は決して落胆することなく、すべてのことをその終までやり通すことができる。神はアルパでありオメガであるように。
真理は人を縛り、その個性を均一な物にしてしまうと誤解されているが、真実はそうではない。真理は常に人を強くし、落胆を遠ざけ、確実な勝利と光をその人にもたらすのだ。
結び
これらの事をこれから私は述べていきたい。同じく神の英知を知りたいと求めるそこの若者よ。まずは軽い気持ちで我々の家である教会に足を向けて欲しい。
我々は神の言葉を伝える事に飢えている。そして若者の多い我が教会は、基本的に腹も飢えている。お菓子の一つも差し出せば、喜んで神の言葉をその口が紡ぎ出すであろう。
たまに饒舌過ぎてうっとおしいと感じる事もあるかもしれないが、その辺りは寛大な心で受け止めて欲しい。