何にでもなれる人
ある知恵のある男がいたが、一人はその人に「かんなの使い方を教えてくれ」と頼み、その男は「これこれこのように使えばよい」と答えた。
またある人はその男に「私と争うこの人との仲裁をしてほしい」と頼み、男は「あなたはこうであの人はああだからこうだ」と答えた。
またある人はその男に「こういうものをなくしたが、それはどこにあると思うか」と尋ねたところその男は「あそこに行けば見つかるだろう」と答えた。
またある人はその男に「ある本にこのように書いてあるがこれはどういう意味なのか」と尋ねたところ男は「それはこうこうこういう意味だ」と答えた。
それからまた別のある人がその男に「自分は人生をどのように生きるべきか」とその男に問うたところ男は「私に学び、私について来なさい」と答えた。
それらのことを見ていたある人がその男に「あなたは何をする人なのか」と尋ねたところ、男は「あなたが私をどのような立場の人だと考えてもそのとおりになれる」と答えた。
何にでもなれる建物
ある人がある建物を指して「これはどういう建物なのか」と道行く人に訊いたところ、ある人は「一時的な休息所だ」と答えた。
その男がまた別のある人に尋ねたところ「動物を売って儲ける市場だ」と答えた。
同様に他の人にも訊いてみると、ある人は「宝物庫だ」と答え、ある人は「祈りの家だ」と答えた。
自分の認識する価値どおりに接する
人は物に対して価値を見出すとおりに接するものである。ある部屋一つも尊く接する人は私費を投じて調度品を買い揃え、時間を惜しまず労苦して飾り付けをして、全てが終わった後には理想世界をつくったと甲斐を感じながらその空間を享受する。そうして少しするともっと良い場所にしようと思い立つ。
しかし同じ部屋であっても異なる認識を持つ人は「あれがうっとうしい、これがうっとうしい」と言って空間を破壊しながら「これがもっと楽だ」と言って飲み食いをし、恋愛にひたり、あるいはスポーツのテレビ中継に熱狂しながら喜ぶ。飲み食いの染みがテーブルについても気に留めることはない。数年も住んでいながら自らが投資することもなく、片付けることさえもしなかったその場所を清く装ってもそのように扱う。
これらの二人が共に住んでいることだけを考えれば、これらは単に価値観の違いのようだが、もしその部屋に本当の主人がどこかにいるとしたら話は変わるだろう。
仕事の「主人」とは
ダビデはいつも民に先立って神を賛美し、舞を舞いながら栄光を帰した。聖殿を建てることを思い立ったのも彼が誰よりも先に言い出したことであって預言者が指示したわけでも神が指示したわけでもなかった。そうして積極的に建築資材を備えたのも建築の当事者であるソロモンではなく彼であった。
この時代もある人は三年間戦線に出て受け取った報償をもって神のために聖殿を建て、後には彼が伝える福音によって従ってきた人々と共に広大な山奥の聖殿を建築した。経験のある者たちは皆恐れをなして逃げ出したような巨石群をもって象徴的な岩の造景を積み上げた際も、斜面一面に真っ青な芝生を植えた際も、池の上にたたずむ楼閣を建築した際も、常に先頭に立って指示もしつつ自らシャベルやリヤカーやかんなを持ち出して作業に携わった。
二十年の間海外で福音を伝え、また十年間この世の低い所に身を置きながら過ごされた後にその聖殿に戻ってからも、その人はいつも聖殿を顧みられながら、目についたところがあれば人も呼んで新たに道を整え、木を植え、岩を置き、楼閣を建て、木に水をやり、雑草を刈り、蜂や蛇を駆除し、大雨が来る前には土のグラウンド一面にビニールを敷き、それが終わればまた土をならし、聖霊が命じれば明け方日が昇る前から出かけて岩を買い、木を買い、土地を買って聖殿をより良いものに造られ続けている。
彼はそれほどまでに真心を込めた聖殿を「人々と共に使ってこそ良い」と解放して使われる。しかしやはり最もその聖殿を見て満足し、喜んで活用するのはほかならぬその人である。それはその人こそその場所を神を迎えるための最も聖なる場所として考えて日々より素敵に飾ろうとする「主人」だからである。
彼はかつてその場所に自らの家を建てた時にはトイレさえも作りたくないと大工に伝えたと言われる(今は清潔でかつ美しく飾られたトイレがある)。聖殿を造る際に誰より先頭に立って働かれたのもまた、彼自身が誰より神を迎えるために飾り付けをしたいと願って開発を始められた「主人」だったからではないだろうか。
天職に就くためには
神の歴史は二千年前も今も神を最も愛してその願いを叶えようとした人の手に任されて広げられてきた。とはいえ、神がその人に言葉と構想を与えたとしても一人で歴史を広げることはできず、福音によって導かれた個性豊かな人々に仕事を任せながら大きくその働きをなしていくものである。
それぞれの仕事の根本的な主人は神であり、また神が言葉を与えたその人であるが、実際に手を動かす人も神を愛してより良く歴史を成し、福音を伝えようと思うときに神の歴史においてその人に個性どおりに与えられた働きの「主人」となり、その思いに従って労苦も惜しむことなく働いて、かつ、神が共にして自らの実力や権限によっては成し得ないことを成しながら甲斐を感じて生きていくようになる。まさに「天職」をもって生きていくのである。