信仰の土台とは

ハモニーさん、今日はなんだか元気ないですね。体調が優れないのですか?

いや、体調不良というより、悩みごと。
昨日の夜走って追い込んでたら、急に昔は教会にいたけど今は来てない人のことが思い浮かんで、怖くなっちゃって。

なるほど、寂しいとかじゃなくて、不安なんですね。

うん。その人、私が教会に通い始めた頃に周りの人からいろいろ言われた時にすごくよくしてくれた人だったんだ。
で、その人が言ってたの、「学生の時は皆について行くけど、社会に出た時には信仰があらわになるものだよ」って。
その人は優しかったし、熱心でもあって、兄弟にもご両親にもキリストについて宣べ伝えて信仰を植えてたんだよね。

そんなに熱心だった人がもう教会には来ていないとなると複雑ですね。

でしょう?
私なんか「あなたは神様の歴史に生きているんですよ」なんて言われてもまだ実感ないし、隣で誰かが涙流して祈ってたら「え…?全然泣けないんだけど、ひょっとして私って罪な女…?」なんて感じちゃうくらいよ。
だから、あんな熱心な人もいなくなっちゃうなら、自分なんかいつ信仰失うか分からないなあって。

僕も似たようなものですよ。聖書を読みながら
- 「ゴリアテみたいに身長3メートルあったら無敵だろう」とか、
- 「この手に十の災いを起こす力があったらいいのに」とか、
- 「『サタンよ引き下がれ!』と言うだけで悪者が後ろにぶっ飛んだらいいのに」とか、
いろいろ考えちゃいます。

へえ、そうなんだ…(なぜか知らんけど男は力を欲するのね…)。
それで、信仰ってどうしたら堅固になるんだろうね。

信仰の土台は、ずばり御言葉と実践と祈りです。

ν(ニュー)さん、そろそろ来る頃かと思ってました。
早速ですが、その心を教えてください!

いいでしょう。今日は固くない話なのでこのナチュラルフォームで行かせてもらいます。
御言葉について

ではまず、なぜ御言葉がなければならないのか。それは御言葉がなければ何が義であり、どのように救いが成され、どのように復活が成され、またその先の携挙が成されるか分からないからです。
結果として、
預言がなければ民はわがままにふるまう。
〜箴言29:18〜
という言葉のとおりになります。
また、神は各自の義と罪について「行ったとおりに報い」られますが(エゼキエル書18:20-24)、そもそも御言葉を聞いていなければ自分に何か起きたとしても原因と結果を結びつけることができません。つまりフィードバックループが機能しないのです。

確かに、当然のように御言葉を聞いていましたが、聞く時に頭に入っていなかったらその先がつながらないということになりますね。パウロが「信仰は聞くことによる」と言っていたのが思い出されます(ローマ人への手紙10:17)。

今後は説教の時には集中します、はい…。
行いについて

では次に行いについて、御言葉を聞いたとしても、それに従った行いがなければ、その御言葉によって得るべき何か、避けるべき何かに出会うこともなくその都度環境から来る刺激に反応しながら漫然と流されて生きていくようになりますね。
御言葉を意識することなく生きていくとしたら、何かを成しても自分の意向を成したのであり、何かを得てもただ得たことによる喜びがあるだけであり、何か災いを避けたとしてもただそれによる安堵に至るだけで、その出来事によって特別に神を認識するということは起こらないのです。

もし「今は誘惑に負けず〇〇に勤しむべき時だ」という言葉があって、でもそれを聞き流して自分がネットで「いいな」と思った何かの資格試験に取り組んで受かったとしても、神様から見たらどうせ使わないし、私が時間を割いて取るべきものではないのに、私が一人で大喜びしているっていう感じですか?

左様です。

「歩いてゆっくり行きなさい」という言葉がちょうどその日に伝えられて、ちょうど自転車が壊れていたから歩いて駅に向かったら、自分の行く道で少し前に大事故が起きていたとします。
もし「歩いて行きなさい」というのを完全に忘れていたとしたら、「自転車で行ってたら巻き込まれたから、自転車が偶然壊れていてよかった」となるわけですね。

左様です。そういった一つひとつの神の働きかけを覚えることが神との経緯につながるのです。
人が経緯をつくろうと誰かと対話をするときは自らの生活で起こったこととその相手との思い出を話すのであって、何もないところから話を作って伝えるのではありませんよね。
それは神との対話、すなわち祈りにおいてもしかりであって、御言葉によって神の働きかけを知ることなしには神と経緯をつくるために対話できることがないのです。
祈りについて

最後に祈りがなぜ必要かについて話して終わりましょう。
祈りがなければ生活の中の感動も感動で終わり、それを入口として神の愛と心情を悟ることもありません。悟り、知恵というものは生活をもとにした神との対話が深まる中で天から授けられるものなのです。

いつも祈って神様の心を分かった時に「今の自分のままではいけないな」と感じます。

そうですね、神の心情や実情を悟った時に自分自身が悔い改めるべき事柄も見出すようになり、より高い水準で自らを装おうという心が生じるようになり、行うべきことを見出すようになるのです。
人はそのようにして一生の間神の前に自らを低くし、常に自らの体を生きた捧げものとしてより良く装って生きていくものなのです。
不安の中でも確かなもの

νさんの話を聞いていて一つ思い出したことがあります。
NHCが所属するキリスト教福音宣教会を立ち上げた牧師さんが、歴史を生きる中で疑念が生じた時のことについて、こんな言葉を話していたのでした。
私に押し寄せる困難によって心が弱くなる時も、私自身が真実に行ってきた事柄だけは否定できなかった。

アーメン。
その行いが単なる熱狂によって、あるいは自らの栄光を求めて行い、主と神と歴史に対する確信によらないものであったなら一時の錯覚ないし気まぐれとして否定できたことでしょう。
なぜキリストを認めるに至ったのか、認めるまでのさまざまな御言葉による経緯を思い返してみたときには、それが自らの家を支える土台となるのです。

ああ、今ようやく悟りました!だからイエス様もこう言われたんですね!
私の言葉を聞いて行わない者を砂の上に土台を建てる愚かな者に譬えることができよう。洪水が襲ってくるとたちまちその家は土台ごと押し流されて何も残ることがない。しかし私の言葉を聞いて行う者は岩の上に土台を建てる者のようなものであって洪水が襲ってきても揺らぐことがない。
〜マタイによる福音書7:24-28〜

お二人ともエレガント。わたくしも語っている甲斐があるというものです。
真の所有

最初に話した不安について、今頭の中でいろいろ感謝すべきことを列挙して祈ってみました!
それで、悟ったことがあって、いろいろ感謝した出来事って、実は何か肉のものを得たことよりは、むしろ肉による縛りから解放されたことによる喜びだったなってことです。

それは大きなことを悟りましたね。
この世で人が誇っている知識や権勢は全て肉が生きている時だけ必要なものであって、肉の一生が終われば必要のないものです。ただ神の恩寵によって賜った天における永遠な都と神と共に暮らす生だけが真の喜びであり、真の所有なのです。
さて、ハモニーさんの不安も解消されたところで、わたくしもまた悩める人に聖書を教えに行くとしましょう。ご機嫌よう。