明るい現実と暗い現実が入り交じる世界

最近隣国で指導者が変わりましたね。いろいろと今までその国では行われていなかった新しいことに挑戦しているようで、変わって良かったのかなって思います。

そうだね。よく「新しい」って口にしてるよね。新しい世界をつくろうとしていて、そのうえ就任演説でも神様の名前が出てきていて、神様があの人を選んだのかな、なんて思っちゃうな。
前の人は個人的にはすごく嫌いだったけど、それでも日本の近くの地域が荒れていた時に独自のスタイルで外交をやって、間接的に「分裂していた国どうしが互いに国境を超えて歴史的な融和が起きた」なんてことになったよね。
神様は御心のために自由に人に主権を与えて取り去るんだなって思った。

そうですね。ところで、「新しい」と聞くと新約にも旧約にも出てくる
見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。
イザヤ書65:17
っていう聖句を思い出します。続けて、
おおかみと小羊とは共に食らい、ししは牛のようにわらを食らい、へびはちりを食物とする。彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく、やぶることはない
イザヤ書65:25
とも言っていて、新しくなると聞くと、理想世界が成されるんじゃないかって期待しちゃいます。

うん、国というレベルじゃなくて自分の仕事のやり方とかのレベルでも新しくするって希望的だよね。
でもさ、一方で今の世界を見ると、世界中が疫病に悩まされている今も衰えるどころか以前にも増して暴虐が満ちてるなあって。

そうですね…。一部を見れば希望的だけど、また別の部分を見ると暗くなります。

ああ、今日も少年少女が神がいかにしてこの世界を治めておられるかを分からず、神を完全に信じることができていないご様子…。

ν(ニュー)さん、信仰が足りず申し訳ありません…。

いいえ、謝る必要はありません。信仰とは盲信ではなく、知ることにより一層堅固な信仰を持つに至るのです。
神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
ヨハネの第一の手紙3:8
無知こそ悪魔がつけ込む隙であり、エバは無知ゆえサタンに惑わされたのです。
裁きとは何か

まず、裁きとはどういうものかについて教えて差し上げましょう。
あなたがたの悪しき行いのためにわたしの怒りが火のように発して燃え、これを消す者はない。
エレミヤ書4:4
悪なる行いに対する怒り、これが裁きです。
ではこの裁きは突然やって来るのでしょうか。

いえ、確か聖書にこんな聖句がありました。
あなたがたの先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはわたしのしもべである預言者たちを日々彼らにつかわした。
エレミヤ書7:25-26
しかし彼らはわたしに聞かず、耳を傾けないで強情になり、先祖たちにもまさって悪を行った。

なるほど、裁きはいきなり来るのではなく、神様が遣わした人を通じて何度も警告があってから来るのね。

左様です。そして裁きの後には癒やすと言われます。
主はこう仰せられる、見よ、わたしはヤコブの天幕を再び栄えさせ、そのすまいにあわれみを施す。
エレミヤ書30:18

わざわざ癒やすってことは、憐れんで、忍耐して、それでもどうしようもないから懲らしめるって感じなんですね。

僕が巷で裁きについて聞くときは、皆怒りだけを意識している気がします。過激なイメージでした。

そう、悲しいことですが、神も人に誤解されているのです。そもそもなぜ裁くのかということについてはこうあります。
わたしはわが家を離れ、わが嗣業を捨て、わが魂の愛する者を敵の手に渡した。
エレミヤ書12:7-8
わたしの嗣業は、わたしにとって林の中のししのようになった。これはわたしに向かってその声をあげる。それゆえわたしはこれを憎む。
どういう意味かお分かりですか?

人間を愛してくださっているのは分かるけど、はっきりしないです…。

では、もう少しヒントです。
主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。
エレミヤ書3:14

分かりました。人間を愛しているのに裏切られたからですね。

ご名答。どのような形で裏切られたでしょうか?

多分、イザヤ書やエレミヤ書でたくさん出てくる偶像崇拝ですね。
あなたがたはわたしの他になにものをも神としてはならない。刻んだ像を作ってはならない。私は妬む神である
出エジプト記20:3-5

エクセレント。しかしわたくしは言っておかねばなりません。偶像とは像だけを指すのではなく、富や名声などを含む、自らが神以上に愛するすべてのものであると。
義人も悪人も苦難を受ける

ところで、世界を見ると、必ずしも悪人だけが苦しい思いをしているわけではなさそうです。

はい、義人も悪人も同じこの世界に生きているゆえ、裁きの時は全体が苦しむのです。しかし義人は残ります。
ノアの時代、洪水の裁きはノアが福音を伝えた地域全体を沈めました。しかしその言葉に耳を傾けることをせず、神を侮って性的な放縦にふけっていた者たちは除かれましたが、ノアは神に従って建造した方舟によりその命を守られました。
ソドムの地が裁かれた際、ロトとロトの言葉に従った家族は生き延びましたが、背いた娘婿と妻は命を落としました。
またユダが滅びゆく最中、書記官バルクに対してエレミヤを通じて「何か大きなものを求めるのか。あなたがどこへ行くにも命を賞として与えよう」と言われました。
裁きの影響を免れることはできませんが、神はその置かれた状況において最大限報いられるのです。

NHCが所属するキリスト教福音宣教会を立ち上げた鄭明析先生が海外での経験を話された時もそんなことをおっしゃっていた気がします。
先生がどこかの国で十か月の期間拘束されて肉体の苦痛を伴う審問を受けられた時の話で、その場所に拘留されている人たちにスープが支給された際、鍋の中にたったふた切れしかない肉の一切れが先生に配られたそうです。
先生は、
そのひと切れこそがその場所において御子が私に賜った最大限の恵みだった
と言っていました。
神を喜ばせる

神様を悲しませることで全体が裁きを受けることもあれば、神様を喜ばせることで全体が祝福を受けることもあるんじゃないかしら。

そのとおりです。神の心情を思って考えることができるのですね。
神が喜ばれること、全きこととは何か、それは時に従って神が人を遣わし、その人を通じてその時代に該当する福音を伝えられることで分かるようになります。
その福音によって人々が神と共に各々の才能を開花させながら生きたときに個々が理想世界を成し、さらに進んでその知識が全地に満ちる時、この地上に神が願われる真の理想世界が成されるのです。