イントロダクション
かつて、日常生活でそれとなく聞かれる宗教関連の問いかけをNew Harmony Churchに通う一個人の目線で分析して語ることで、NHCに対する共感を集め、なんなら読者にNHCのファンになってもらおうという野心的なシリーズがあった。人呼んで、「NHC宗教系問いかけシリーズ」である。
このシリーズは、
「うちのブログ、信仰的なのは素晴らしいのだけれど、一般の人に気軽に見てもらうにはちょっとなぁ…」
という当時のNHCのSNSの担当者の一言から始まったものであり、一部の人には根強い人気があったとされるが、その後紆余曲折あって(詳しくはこちらの記事をお読みいただきたい)一度突如集結し、またひっそりと再開したのである。
再開当時は「帰ってきたNHC宗教系問いかけシリーズ」と呼ばれていたこのシリーズであるが、既に久々の投稿となっており、根強いファンからも
「本当に帰ってきたのか、帰ってきかけて叶わなかったのか」
と心配される始末であった。
そこで弁明をすると、実は筆者は書きたいことがあったが、書けずにいたのである。筆者は二ヶ月半の間、このブログサイトの大規模なサイトリニューアルに没頭していたため筆を取ることが叶わなかったのである(古くからのファンは旧サイトの突然の「404 Not Found」に衝撃を受けたに違いない)。
今回のテーマ
さて、復活に沸き立つ読者を待たせないように、早速始めよう。
そして単刀直入に言わせてもらうと、誰しも一度は福音を聞いたことがあるのである。しかし巷ではしばしばこうささやかれるのである。
「なんだか最近熱心に自分の思想を伝えているらしいよ…。宗教じゃないの!?」
宗教と布教は結び付けられることが多いが、NHCに通う一個人の目線で布教とはどういう行為なのか、なぜこのような反応が起きるのかを語ってみたいと思う。
本論
大概の宣伝は恐れられる
布教というのは文字通り教えを広める行為であるが、巷で「宗教じゃないの」と言われる時、それは若干ネガティブな感じを含んでいるように思う。つまり、人々は恐れや不安を感じているということである。
しかし私は思う、人々は大概の宣伝行為を恐れているのだと。読者は「例えば?」と内心言うだろう。そこで私は答えよう。例えば、これである。
「ご自身やご家族が万が一大病された時にこの保険に入っておくとだいぶ楽になるでしょう」。
皆大嫌いな保険の宣伝である。しかし、人から勧められると嫌う保険も、自分からなんだかんだダイレクトメールとかWeb検索で調べた後に加入してしまう。
そして読者はまた「他には?」と言うかもしれない。そこで私は答えよう。他には、これである。
「侵略反対!!△△は追放せよ!」
デモには決して関わりたくないと思う。しかし、言っていることは多少なりとも共感するのだろう。
恐くない宣伝もある
ところで、恐くない宣伝もある。「例えば?」とは言わないだろう。そうではなく、きっと「え?何だろう?」と言うに違いない。そこで私は大胆に話してみよう。
「未経験歓迎!高収入のアルバイトがあります!」
なぜ恐くないかというと、そんなうまい話はないと分かっているからである。
読者はここでは「他には?」とは言わないであろう。代わりに「他にあるかな?」と言うのである。そこで私は自信を持って話そう。
「データ管理は大事だとは分かるけど、一貫した管理に悩んでいませんか?このソリューションを試してみましょう」。
なぜ恐くないかというと、あまりにも自分と関係ない話で何を言っているのかすら分からないからである。
そして読者はもはや自問することも、問いかけることもしない。それは、これもまたその例だろうと気付くからである。
「この前○○にあるXXというイタリアンのお店に行ったんだけど、超がつくほど美味かったよ!今度一緒に行かない!?」
レストランなる存在に知らないことなどないからである。
宗教は身近だけどよく分からない
布教の話に戻ると、それが保険の宣伝やデモと同じように恐れられるのは、教えを聞くこと自体に障壁がなく、身近でありながらもその実態についてよく分からないからである。
この国ではキリスト教の教会さえも恐れられる。欧米では恐れられない。あまりにも教会があり、自身が通っていた、通わせられていた、通っている、周囲に通っている人が多くいるからである。
というわけで、NHCでは「宗教系問いかけシリーズ」や「天使ニューの聖書話」等でNHCの教えについてオープンにすることで透明性で恐れる必要のない教会を目指しているわけである。
布教とはこれという人にだけそっと教えたい秘密の暴露である
さて、ここまで来て、NHCでは布教についてどういうスタンスを取っているのかについて話をしてみようと思う。人によって考え方は異なっているかもしれないが、私の個人的な解釈では、布教、ないし伝道というのは秘密の裏技を密かにこれという人にだけ明かすようなものである。
仕事をしていると、うっかりか、研究の末か、うまくやる方法を見出してしまう時がある。周囲の同僚は苦労している。自分はうまくできる。想像できるのではないだろうか、この教えてあげたいような、まだ温めておきたいような、しかしもし次第に人々が気付き始めたらつまらなくなってしまうような、そんなむずがゆい心を。
そんな時、読者ならどうするだろうか。ずっと秘密として保持するだろうか?あるいは皆に言い広めてしまうだろうか?きっと、親友にだけ、あるいは目をかけた同僚や部下にだけ、こっそり教えるに違いない。
聖書で見る布教
聖書の中でも布教について分かりやすく描かれているシーンがある。イエスがエルサレムでの布教を妨害されて異邦の地を訪れた時、旅に疲れて井戸端で休まれたことがある。そこに来たのがユダヤ人から「異邦」として蔑まれて関係を断たれていたサマリヤ人のうちの一人の女であった。
女はイエスを見て衝撃的な一言を放ったのであった。
あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。
ヨハネによる福音書4:12
そう、イエスは生きておられた当時はユダヤ人たち以外にはそれほど有名ではなかったのである。
イエスは苦笑いされたかもしれないし、腹を抱えて笑われたかもしれないし、真顔で答えられたかもしれないが、こう返したのであった。
(あなたには)夫がないと言ったのは、もっともだ。あなたには五人の夫があったが、今のはあなたの夫ではない。あなたの言葉のとおりである。
ヨハネによる福音書4:17-18
これを聞いて女は屈辱だと唇を噛み締めたかもしれないし、ぎょっとして目を丸くしたかもしれないし、平静を装って真顔だったかもしれないが、いずれにせよ「だが、的を得ている」と態度を改めたのであった。
主よ、わたしはあなたを預言者と見ます。
ヨハネによる福音書4:19
重要なのはここからで、実は女はキリストの来臨と礼拝をどう捧げるべきかという旧約における教えの本質について悩んでいたのであった(ヨハネによる福音書4:20, 25)。それに対してイエスが明確な答えを与えられた時、女は気付けば自分の町に走り出していたのである。
この女は水がめをそのままそこに置いて町に行き、人々に言った、「わたしのしたことを何もかも、言いあてた人がいます。さあ、見にきてごらんなさい。もしかしたら、この人がキリストかも知れません」。
ヨハネによる福音書4:28-29
この町はサマリヤ人の町で、皆ユダヤ人たちから蔑視されていたところであったから、女は自分の同志たちにこの秘密を打ち明けたのだろう。
締めくくり
というわけで、NHCの布教もこれと同じようなものであって、布教しないから教会を追い出されるわけでも命を取られるわけでもない。自分の悩みを解決した秘密を、同じく悩める友や同志に密かに打ち明けるにすぎないのである。
このようなわけで、NHCの人がもし読者に聖書の秘密を明かした時は、きっと読者をかけがえのない人だと感じたのであろうと思って、恐れることなく話を聞いてもらえたら幸いである。きっとその話は読者にとって無駄な話ではないはずである。