人はあまり心が通じない

はあ…。また繰り返してしまった…。

ハモニーさん、落ち込んでいるように見えますが、どうかしましたか?

いや、いいの、独り言だから。

そうですか?何かあればいつでも言ってくださいね。じゃあ、僕はこれで帰ります。

うん、どうも。さようなら。
…行ったか。ああ、これで気が楽だわ。

…。

…そこにいるのは誰?

あなたの天使ニューです。

よかった、人間じゃなくて。

残念ですが、人は分かりあえませんね。

さすが、よく分かってるますね。
うれしいから、苦しいから誰かと分かち合いたいのに、結局いつも思い知らされるのは、人は自分が期待したよりも分かってくれないってことですよ。

喜びは二倍に、悲しみは半分になってほしいと期待するのでしょう。
自分にとってはれしい知らせであって、人もまた自分と一緒に喜んでくれるだろうと思って話すけれども、案外人は驚くことなく一言うなずいて終わるだけだったりしますね。
逆に苦しみを吐露するも、人はその経緯を理解できず、表面的な事実を見て「大したことではない」と言ったりもします。

ええ、「ち○しょう」って感じです…。とはいえ、話がぽんぽん通じるいわゆる「話が早い人」という人がいるのも事実です。
不思議と話が早い人たちは話が早い人どうしで集まって、あまり話をしなくても事が円滑に進んでいくんですよね。そういうの楽でいいなあと思います。

会話の中で「あれ」と言えば「あれ」だと通じるのは、各自の経験がそれなりに豊富で共有知識のようなものがあり、さらに会話の文脈や各自が置かれた状況を的確に把握することができるからでしょうね。
これらの力はある程度は洞察力や悟りというものから来るようにも見えます。

皆に洞察力や多くの悟りがあればこの世界はもどかしさがなくなってハッピーってことですね。

必ずしもそうではありませんが、そういうのも必要ということです。
なんにせよ、人が自分を理解してくれると期待しすぎてはいけません。人につまずいて神やキリストを恨む人も残念ながらいるのですが、順序が逆で、まずは神にその思いを告げるように心がけるべきなのです。

いつもどこでも神様、イエス様と通じるように祈りが大事なんですね。
愛は関心

ちょっと関連した話をしましょう。最も話が通じるのは自分の母親であるという人も少なくありません。
もしその相手が学があろうとなかろうと、そのようなことがあるとすれば、それはなぜだと思いますか?

親なら自分の子供の背景はある程度分かると思います。そのうえで、愛するから相手の話に耳を傾けようと努めるということじゃないでしょうか。

愛、そうかもしれませんね。言い換えると、関心です。
磨かれた牧者というのも話が通じるように思えるところがあるでしょうが、それもやはり彼らが真理に通じているという土台を有した上で、真摯に人の話に傾聴する姿勢に起因するようです。
無論、人を教え、導くにあたっては目の前の人を把握しなければ成り立たないのですが、根本的には一人ひとりを神が愛する命として接し、自らがその牧者としてその命の管理を任されているという認識の上に成り立っているのです。
心を分かって差し上げること

ところでイエスは「あなたのいるところへはどこへでもついて行きます」と言った律法学者に対してこのように言われました、
人の子には枕するところがない。
マタイによる福音書8:20
そしてまた言われました。
たとい人が来て私に向かって「主よ、主よ」と呼ばわり、「私たちはあなたが大通りで話している時にそこにいました」、「私たちはあなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって病を癒したではありませんか」と言っても私はその者たちに向かって言うであろう、「私はあなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」。
マタイによる福音書7:22-23
ただキリストと行動を共にするからといって、ただその人をしるしによって「キリストだ」と呼ぶからといって心を通わせたと言えるわけではありません。
そして心が通じない者と愛が成されることはなく、愛が成されるのでなければ共に住まうことはできないでしょう。

(いつの間にか変身した…。きっと強く言いたいことだったんだわ)
そう言えば、NHCが属するキリスト教福音宣教会の創設者の鄭明析先生もよく「言わんとすることを分かりなさい」と言ってます。
今のイエス様の話と同じで、先生の近くにいる人だからといって先生の心が分かるというわけでもないらしいです。私もそうですが、先生の言葉を聞くからといって心が分かるわけでもないです。

なるほど、既に身をもって経験されたのですね。
結論を話すと、神がその時代に選んだ人を通して話される言葉を聞いて、神について、歴史について、真理について、愛について学び、かつ自分自身もその言葉を行うことによってその人の通った道を歩むことでその人と共通の理解を築かなければならないのです。

アーメン。個々人の経験はお互いに分かり合えないこともあるけど、先に道を行かれた人に関しては、その言葉どおりやってみることで追体験して分かることが可能ってことですね。
さっきの無念な気持ちがいつの間にか消えました。νさん、今日もありがとうございました!