どこで過ごしても信仰者の姿は変わってはいけない
ある人は教会にいる時は恵深いようでありながら家では力なく漠然と過ごし、ある人は信仰による兄弟姉妹と暮らしている時は罪もそれほど犯すことなく生活するが、帰省などで信仰者としては孤独な場所に行くとさまざまな誘惑に捕らわれる。
より大きな転換の例を挙げるならば、海外に移り住むと言語はもちろんのこと、移動一つ、買い物一つ、ゴミ出し一つ、当たり前のことが当たり前ではなくなり、たとえ家の中だとしても生活の勝手が異なり、しばらくは生活にひどく気を取られることになる。しかし信仰者と言うからにはそうした中でも変わらない信仰を持って生きなければならない。
厳しい環境でも変わらない人の姿
二千年前、イエス・キリストは十字架の道を行く途中でも引かれていく主を離れられずについて来る女性たちに励ましを与え、十字架の上でもその後を生きる弟子たちの間を取り持ち、強盗を伝道し、人々を赦して死に至るまで変わることのない「主」の姿を示された。
またある人は二十一年前に故郷を離れて外国を転々とされた時代にも母国で起こったあらゆる迫害のために祈りながら手紙を通じて御言葉を送られ、自身は地場のマフィアに金品目当てに命を狙われて追われる身でありながらも笑顔で説教を撮影して伝えられた。
その人はその後、その人自身の罪ではない重荷を背負って十年の歳月投獄されたが、その心と行いは変わらないどころか、さらに集中力が増し加わり、十年に四千本のペンを使い切りながら七十万通の手紙を書き、明け方の箴言と水曜礼拝と主日の説教の原稿を滞ることなく送り続けた。
その場所は単に閉じ込められた所であるばかりでなく、夏は扇風機しかない蒸し風呂であり、冬は暖房もない生き抜くだけでもやっとの所であった。その場所で熱中症で死んだ囚人も一人や二人ではないという。
かつそこに収監されていたのは無期懲役や死刑宣告を受けたような凶悪な人間ばかりであり、その気性ははなはだ荒く、看守を含め人を殺すことにためらいがなかったという。
そのうえ、その中で半年にもおよぶ摂食の条件を一度のみならず二度も立てながら人々の罪を悔い改め、神が六千年間待ち望んだ清い群衆を備えることに努めた。その厳しさにより一度は目が眩んだ拍子に壁に頭をぶつけて完全に意識を失ったという。
箴言や説教が何もないところから出るのではない。誰しも何かを行う中で悟りを得るのであり、その行いの水準に応じて悟りの水準も異なるものである。
獄の中からも外にいる数万の人を教え導いたその教えは、極限の環境に身を置きながら、かつその場所の厳しい時間期限にも間に合わせて手紙に乗せて説教を送り出し続けた剃刀の刃のような精神をもって悟ったものであり、それは日ごと夜中の一時に起床して深く祈られて霊界に入って得た聖書およびこの時代の秘密であった。
その人は十年の期間を全て終えられた今も六個の山に囲まれた標高数百メートルにもなる秘境で引き続き神のための聖殿を開発しながら日々世界の七十か国に向けて御言葉を伝えて過ごしている。
変わらないためには
変わらない人は変わらない。主イエスは祈りを始めとして、生活の中で随時神に、聖霊に尋ね、報告し、対話し、賛美して聖霊の感動と神の構想をもって行って疎通しながら、常に神と一つとなって過ごすからこそ、どこに行ってもその姿が変わることがなかったのではないだろうか。
キリストは完全に変わることのない水準で生きられるが、キリストに従う人々もまたそのように生きたときに、その強度に従って環境に左右されることなく信仰者としての姿を保つことができる。
こうした信仰者の姿をパウロが一言でまとめている。
いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。それがキリストにあって神があなたがたに求められることである。
テサロニケ人への第一の手紙5:16-18