神に自分の裁きを委ねるには勇気がいる
サムエル記にはサムエルが自身の生涯の潔白を神の前で証明する場面がある。
私が今に至るまであなたがたのロバを搾取したことがあるか、だまし取ったことがあるか、まいないを受け取って裁きを歪曲したことがあるか、またあなたがたを抑圧したことがあるか。
サムエル記上12:3-5
見よ、私はここにいる。もしそのようなことがあったなら訴え出よ。神の前で、また油注がれた者の前で私はそれを償おう。
このような身の潔白に関することだけでなく、さまざまに神を証人として話すというのは決して易しいことではない。神は自分が嘘をついたときには他の人は誰も知らずとも自らは「自分は嘘をついた」と知っているのと同じくそれを知っているのだという。
預言者エリシャも使いのゲハジが自分に黙ってシリアのナアマンに病を癒した報酬を受け取った時にはゲハジに対してこのように言ったとある、
「あなたはどこにも行ってません」と言うのか、私はあなたがナアマンから報酬をもらった時にあなたの隣にいたではないか。
列王記下5:26
サウルもダビデもソロモンも「もしかれこれでなければ神が幾重にも私を罰せられるように」と祈ったが、彼らのような信仰者であればあるほど自分が何を言っているか分からないはずがない。(まして「あなたが正しく私が間違っていれば私が死に、私が正しくあなたが間違っていればあなたが死ぬ」などと祈るのはキリストでなければ絶対にやめた方が良い)。
ネヘミヤも手記の中で
神よ、わたしがこの民のためにしたすべての事を覚えて、わたしをお恵みください
ネヘミヤ書5:19
のようなことを何度も書いている。この祈りもまた真実に生きて初めて捧げることのできるものであって、自分の考えで行ったことについては神に保証を求めることはできない。
主イエスでさえ
私の思いのままにではなくただ父の御心どおりにしてください
マタイによる福音書26:39
と祈られている。
しかしこれらの祈りはもろ刃の剣のようなものであって、自分が神を畏れて真実に行ったことに関してはこれほど心強い祈りはない。
なぜなら自分が正しければ全てを掌握される神が証人となって自分の側に立ってくださるからであり、一方でこれがたとえ無知による過ちであったとしても、無論間違ったのだから該当する報いは受けるにせよ、神は必ず真実さを加味し、慈愛をもってその間違ったことを悟らせられるからである。
このように神に自身の裁きを委ねた人々は「神は義人の祈りを聞かれる」という確信があったのだろう(箴言15:29)。
罪があると祈りは聞かれない
ところで、いつも神により頼んでいたダビデは詩篇の中でこのように言った、
主に罪を認められない者はさいわいである。
詩篇32:1-2
私自身信仰に関することでとても恐ろしい経験を幾度かしているが、そのうちの一つを書かせてもらおう。
ある人とのやり取りの中でメッセージを送ったのだが、後で読み返した時になんだかとても冷淡かつ鋭い言葉のように思えて、「これはもしかしたらまずいことになるかもしれない」という予感がした。それで祈ってみると、私の祈りが虚しく響いたのである。誰も聞いている感じがしない、そこに誰かがいる感じがしない、ただ自分一人で言葉を発しているかのような虚空を感じたのである。
全ての祈りは聞かれてこそ叶いもし、赦しも受けられる。それなのに聞かれもしないのだから自分という存在が一切神の手を離れて放り出されたようなものであった。
その時私は明確にアダムとエバの堕落の話を悟るようになった。彼らは周知のとおり堕落してエデンの園を追い出されることとなった。そこから千六百年経ってようやくノアの時に再び口を開かれるまで神は人を顧みられなかったと書いてある。
神の心情を害すると対話ができなくなるのであり、幸い私はそれを悟って悔い改めた後に再び感覚が戻るようになった。
ダビデ自身いつも神を賛美して栄光を帰する人間であったから、罪を犯した時に栄光を帰しても受け取られないことの虚しさ、また悔い改めてもその赦しを受けられないことの恐ろしさを悟っていたのだろう。
神と人との仲保者を認めないと祈りが聞かれない
ついでに神に顧みられない状況をもう一つ挙げるとすると、モーセは人々がモーセに対して不満をつのらせた時に
私につぶやくのは神につぶやくことである
民数記16:8
と言い、コラの徒党がモーセに敵して立ち上がった時には
彼らの捧げものを顧みないでください。私は誰からもろば一頭すら取ったことがなく、抑圧したこともありません
民数記16:15
と言った。
主イエスもまた弟子に対して
私は道であり、真理であり、命である。私によらなければ誰も神のみもとに行くことはできない
ヨハネによる福音書14:6
と教えられ、人々がイエスを自称キリストだと罵った時には
わたしは去って行く。あなたがたはわたしを捜し求めるであろう。そして自分の罪のうちに死ぬであろう
ヨハネによる福音書8:21
と話された。
すなわち、人々は神が遣わした人を通して神につながり、彼らを認めることで神に赦しを含む願いが聞かれることになっているのである。
このように聖書を読むとたくさんの祈りが記録されているが、真実な信仰者がどのような心で神に接し、何を考え、どのような生を生きたのかが見えてくる貴重な記録であると考えている。