聖書との出会いと神の全能さ

信仰を持ったきっかけ

いつしか身についた日課

明け方が来るごとに祈りをもって神と対話し、個人のこと、家庭のこと、民族のこと、世界のこと、特別に気にかけている人のことまでさまざまに話し、

  • 神が働きかけてくださった事柄に感謝することもすれば褒めたたえるもし、
  • 時には心にある疑問や不安を投げ掛け、
  • 時には至らないことを悔い改めることもしながら時間を過ごす。

福音を世界的に伝えたいという思いを心に抱きながら本も書き、その思いから他のことにも手を伸ばして道を探る日々である。

いつしか私の生活の基本となったこれらのことも、考えてみれば不思議なことである。私は初めから信仰を持っていた人間でもない。かつては神を知らずにいたし、特段気に掛けることもなく自分の思いのままにその時々の状況や環境や興味・関心に従って生きていた。この国のいまだ残念なところではあるが、宗教といえば悪いイメージが広まり、私もその影響を受けて心を広く開いてはいなかった。

聖書との出会い

ある時イベントに参加する中で私に聖書を教えてくれた人に出会ったが、聖書の話を持ち掛けられた時にはやはり警戒してかかったものだった。

そうしてその状況で当時学生であった私と社会的なものを持っているその人のどちらが立場的に不利かを考えた結果として「一度だけなら聞いてみたい」と結論を述べたのであった。

それは偶然その時だけ心が動いたということではない。広く心を開いていなかったとはいえ、数か月前から道端で教会関連の人に声を掛けられた時には一瞬であしらうのではなく少しだけ話を聞いてあげようと思うようになっていた。

私がいた地域には教会が珍しくなく、天気の良い日にベンチで読書をしていれば声を掛けられるのは半ば日常的なことであった。

最初は興味がなく煩わしさを感じて「結構です」とつっぱねたものだったが、世界を俯瞰できる知識が欲しいとも思っていたし、それなりに善良な心を持って生きていたためにある時ふとそのような自らの不寛容な態度に思うところが生じて「五分だけなら」と相手に話すことを許すようになったのである。

その段階から既に聖霊が心を動かされていたと悟ったのは、信仰を持って数年経って当時を振り返った時のことである。彼らに話す時間を与えたことも、私に聖書を教えてくれた人との一対一の場でこざかしい計算をしたことも、私が上からものを見ていたようで実は全て神と聖霊の計略にしっかりと乗せられていたのだと思うと神には敵わないと認めざるを得ない。

時に適って呼ばれる

ペテロがイエスに出会った時のことが聖書に記録されているが、それはペテロが徹夜で漁をしても一匹も獲れなかった日のことであった。

シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。

ルカによる福音書5:5

このタイミングだからこそペテロがよりイエスの言葉を受け入れただろうが、偶然一日だけ何も獲れなかったわけではないだろう。それよりも前から生活に苦しさがあり、魚を獲る漁師としての生き方について考えていたのではないだろうか。

預言者イザヤも言ったように、神は時にふさわしく人を呼ばれるのである。

あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。

イザヤ書55:6

信仰を持ってからの変化

話を戻すと、聖書を学ぶようになった後、神は先につくられた人々を通じて私が教会に対して信頼を置くようにさせてくださり、半信半疑ながらも「祈り」というものを始めると見える形で願い求めに対する是非を答えてくださった。

また、罪を犯した翌日に必ずつきまとう電車に乗り遅れそうな状況などの困難を通じて罪とそれに対する裁きなる霊的な因果応報の世界を悟らせてくださり、夢や幻によってその時々の自らの行いや逃してはならない機会、はたまた切実な願い求めに対する将来の祝福や癒しの啓示を下さった。

こうして私が神を認め、真理を認め、罪を離れ、その御言葉を持って来られた主を認めるようになさり、遂には私が今日のように自ら神を愛し、賛美し、自らの人生が神と共に歩みながらその大きな歴史を成すところに用いられることを願って生きるほどにされたのである。

家庭においても普通ならば到底愛することのできない相手を愛によって気にかけ、諭し、それによって相手の態度にも変化を来たらせるほどになったことを見ると、真にキリストを通じて神が話されたその教えの正しいことを実感するほかなく、また私にそのような心を植えられた神の偉大さを見るばかりである。

神の全能さは何に注がれるか

「神が全知全能である」ということは誰もが観念としては知っている事柄であるが、「それを本当の意味で悟るには神が自らに働きかけてこられた経緯を振り返ってみるしかない」とキリスト教福音宣教会を設立した鄭明析は言う。

人が必要なとおりに与えられる神ゆえ、小さく行われるからといって全知全能でないとは言うことができず、各自が自身にとっての全知全能さを見て悟ることがふさわしいのである。

しかしながら、数ある働きかけの中でも神が創造主としてとりわけ注力されることがまさに神の天地創造の目的である人間を愛の対象につくることであって、各自が神を愛する自身の姿を見てその変化に驚きを感じたとき、神の真の権能と御力を知るようになるのである。

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