狭い部屋に広がる天国

独り言

長期滞在中の狭い部屋で募る怨めしさ

共に暮らす人々との生活が合わず精神的な苦痛を感じるときにふとその人たちの有している環境に目をやるならば自らの置かれた環境がみじめに思えてくるものである。

「なぜあのような人たちがまともな家具と広い部屋を占有している一方で私は体がはみ出す寸前のきしむ小さなベッドと一番下の前板が外れ、それ以外の階層は底が歪んで大きな隙間の空いている壊れた箪笥一つの他何もない狭い部屋に押し込められているのだろう」。

恨めしい気持ちになり、不満が一層つのってくる。さまざま悪感情が続けて湧いてきて集中すべきことにも集中できなくなる。これは認識が間違っているからである。

神の愛は与えられた状況で最大限与えられる

生活する中で不便なことがあればその都度神に祈りつつ必要な物も買い求め、会社経由で業者にも依頼しながら一部の電源から電気が流れないなどの故障も直り、安値で買ったきしむ事務椅子と折り畳み式の机も手に入れて入居当初に比べれば多少は便利になって生活の水準は改善してきたのである。

掃除機も買ったため主日には掃除をすることもでき、部屋は狭いが個室ではあるため、薄い壁を挟んだ隣の「夫婦」の部屋に響きはしても日中であれば気兼ねなく祈ることはできるし、賛美をすることもできる。

机を折りたたんで手前の壁の上半分に埋め込んであるクローゼットとベッドのわずかな隙間に入れれば左右の動きを伴わない腹筋や腕立てやスクワットやチューブのトレーニングをすることくらいはできる。

階下のリビングでコードも抜かれて隅に放置されていた旧式の小さな分厚いモニターを失敬してケーブルを購入して以来それを仕事でもノートPCにつないで使っているし、水曜にはそこに説教を映しながら礼拝を捧げることもできている。主日になればリビングに降りていきテレビにノートPCをつないで主日礼拝を捧げることもできる。

明け方はきしむ木の床ときしむ階段を「爆弾」を踏まないように右に左に移動しながら最小限の音で済むように移動して階下のリビングに行きついてそこで祈ることができている。

それなりに不便はあれど信仰生活に不可欠なものが断たれることなく生活できている。これは神が私がこの地を踏む前に数か月の間「明け方と水曜、主日の祈りと礼拝が奪われず、運動も奪われないように」と祈ったことを聞き入れてくださったのである。

神の愛はどこへ行こうとも絶えることなく、常にその置かれた環境において最大限の恵みを施される。それにより徐々にではあるが生活も向上し、この場所で母国の人ともインターネットでつなぎながら福音を伝え、現地の人にも電子メールなどで福音を伝え、神と聖霊が悟らせてくださった事柄もこのように文章に残しているのである。

ある人の二畳半の部屋での生活

二千年前、使徒たちは投獄されながらも、あるいは流刑にされながらも手紙によって福音を宣べ伝え、啓示を残し、福音書を残した。イエスに出会い、その福音を受け入れて神の歴史と働きかけを悟り、人生の意義を悟り、霊界をも垣間見た彼らにとってそれは「伝えずにはおられない」使命であった。

あなたがたは、かの地を探った四十日の日数にしたがい、その一日を一年として、四十年のあいだ、自分の罪を負い、わたしがあなたがたを遠ざかったことを知るであろう。

民数記14:34

見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。

ヨハネの黙示録2:10

この時代もまた「一日を一年として」預言に従い「十日の間獄に入れられ」たある人は、艱難に見舞われて恐れ、そうでなくとも何をすべきか分からず不安に駆られる愛する者たちを思ってその場所から主日、水曜、毎日の明け方の礼拝の壇上から御言葉が欠けることのないように手紙を書き続けられた。

その部屋は二畳半と今私のおる部屋よりも狭く、山のようにうず高く積もる手紙を左右に置けば寝る隙間さえ見出しがたかったと言う。そしてその狭さゆえに机を入れることさえ彼は拒み、来る日も来る日も重い頭を支えながら床で手紙を書き続けたと言われる。その期間の終盤まで暖房施設などなく、温かなシャワーを浴びることも難しく、冷房施設などは熱がこもれば熱風を吹かせるだけの扇風機の他にはなかったとも言われる。

しかし彼がその場所で書いたのは説教だけではなかった。彼は福音を伝える中で自らが行ってきたこと、神が働きかけてこられたことを聖霊が賜る歌詞と神が賜る曲調によって歌にしたのである。そのどの歌も神と聖霊と御子を欠くものはなく、それらの歌を三位一体に栄光を帰するものとし、祈りとし、説教として聖徒たちに送られたのである。

苦しい心で感謝と栄光を帰する歌を作ることはできず、そのような説教も出てこない。無論感謝と栄光のみならず霊魂を生かす悔い改めや赦し、霊界の方向も肉の環境にとらわれて不満と苦しみの中にいては出てくることはない。毎日その閉鎖的な環境で何を体験できるというだろうか。

ただその場所を礼拝の場とし、神と聖霊と御子を迎えて祈り、対話し、栄光を帰し、真実な感謝と喜びをもって仕え、あるいは悟って生きることによってしかこの全てのものは出てくるはずがないのである。

天国はどこにあるか

この地球は人間が地上において神との愛を成す「見える天国」として創造された。全てのものは対を成して創造されたのである。上で話したのはNHCが属するキリスト教福音宣教会を設立した鄭明析牧師のことであるが、その人は言う、

どこに行こうとも神と聖霊と主を迎えて生きるならばそこが天国である。

(画像は筆者が海外で一年近く滞在した部屋を入口から撮影したもの)

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