難しい人と忍耐強く付き合ったときに見える神の片思い

体験談

配慮のない人々

福音に関わる生活をしていると付き合いにくい者がいるのも事実である。

自己中心的な判断を働かせてまるでこちらの生活というものを考慮せずに日程を提案してくるかと思えば、数日間音沙汰がなく既に遅くなってから返してくる者もいる。

またある人は本人との約束に従って律儀に百通を超える連絡を行っているにもかかわらず沈黙を続け、耐えかねて明示的に「要返答」の旨を明記して初めて返してくる者さえいる。

このような者たちを見ると「姿も見えるし、明確に言葉も通じる人間に対してさえこうなのだからいわんや姿の見えない神に対してはどれだけ関心を払わないだろうか」と考えずにはいられない。それでも彼らは程度の差はあれど神を受け入れているのである。

さらに、そのうちのある者は会うたびに悩みの中にいると話しながらもどこか神と距離を置き、まるで「神には時間は出せないが神の持つ祝福はもらいたい」とでも言うかのように見えてくる。

またある者は常々悩みのうちにおりながらも、ある時「今週問題が解決されるだろう」という御言葉を聞いたにもかかわらず特段反応を示すこともせずにいつもと同じようにただ時間を送っている。

「ああ、これではどうして神の祝福を受けられようか。幾度となく機会は訪れたが、自らの判断や感情を優先して神に委ねて行動を起こすことなく背を向けてきたのだ。これからもそのように生きていくのだろう。真に彼らが福音を伝えるべき相手なのだろうか」。

長く待ちわびている神の心

それでも対話を重ねるうちに神を信じて福音を学ぶことに投資することの不安を打ち明け、それが解かれて少しずつでも前進が見られ始めたとき、あるいはまた他の者が長い長い数か月にも及ぶ沈黙の末に丁重な言葉で口を開いたとき、ふと神の彼らに向かう心情を悟らざるを得ない。神はご自身との真の愛を成し得る人間を求めて六千年の歳月を片思いを抱きながら導いてこられたのである。

しもべが主人を褒め称える愛、子が父を絶対的に信じて従う愛、そのような愛もまた神は喜びをもって受け取られ、その豊かな恵みを施されながら人間との愛を成してこられたが、神が真に願われた人間の姿はご自身の心情までも推し量りながら自らご自身の願いを成そうと心も体も尽くして生きる恋人の姿であった

今、それが成される時が既に来ている。アダムとエバの堕落とは何であったのか、サタンとは何者であり、イエスが叫ばれた復活とは何を指しているのか、神と聖霊がご自身の形象に人を創られたのはなにゆえであったのか、その全てが私たちの前で叫ばれている。

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