性格診断

昨日友達から頼まれて性格診断を受けてみたよ。意外と当てはまってるなと思うものも多いけど、これは昔ならそうだけど、今じゃ違うなって思うものもあったわ。

性格診断って悩みますよね。自分の本来の感覚なら「はい」なんだけど、神様の前では絶対やらないから「いいえ」っていうのがあったりして…。
自分のこのスタンスが正しいのかどうかがいまだ分かりません。もしかしてこれって偽りなのかなとか。

偽りかどうかは、結局何を行うかによって判断すべきものです。実際に行っている方が真の自身の姿であって、地においても天においてもそのように記録されているのです。

ですよね!(ってまた突然の登場だわ…)

自分の本来の考えと神様の前で実際に取る考えが異なるというのは、パウロも言っていますね。
内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
ローマ人への手紙7:22-23
パウロほどの信仰者でも常に葛藤を抱えていたということです。

なるほど、僕にも「外なる人」と「内なる人」がいるということですね(コリント人への第二の手紙4:16)。

それって、生まれ持った個性的に変わらなかったり、変える必要のない部分もあれば、愛を実践するために意識して振る舞いを変えている部分もあるってことだよね。

そう、旧約では律法という形でしたが、神が望まれることの核心は「愛の実践」なのです。
性格は脳の体質

葛藤しているとはいえ、いつも神様が願われる方を選択していたら、そのうちそれが本当の自分になるんじゃないでしょうか?

Good question!(真理の力で変身)
脳は考えるほど、その方向に考えが発達します。

キリスト教福音宣教会を創られた鄭明析先生が
性格は脳の体質だ
って言っていたのを思い出しました!

エクセレント!
体質である以上はつくることが可能なわけです。生まれ持ったものとして自らの不義を拭い去ることのできないものだと悲嘆する必要はなく、神を愛し、神の願われる品性を目指して悔い改めを繰り返しながらもつくっていけばよいのです。
復活とは

ところで、性格を直すことについては聖書でもあまり書かれていませんよね。さっきの聖句のようにパウロがちょっとだけ触れるか、イエス様が話されたくらいですよね。

確かに。
イエス様はご自身が「律法を完成しに来た」と話されて、行いもさることながら精神・考えの次元において神の御前に清く、柔和で、謙遜で、慈しみ深く、従順で、平和を成すべきことを説かれましたよね(マタイによる福音書5:17)。
神が完全であるようにあなたがたも自らをつくり完全な者となりなさい
マタイによる福音書5:48
とおっしゃりながらイエス様が天国について話されたのは興味深いです。

連想ゲームみたいであれですが、イエス様が
私の言葉を聞いて行うものは死から命へと移っている
ヨハネによる福音書5:24
ともおっしゃってますよね。もしかして天国や復活って性格と関係ありますか?

そ、それは…隠されている奥義の一つではありませんか!

え、聞いちゃまずかった…??

仕方がないので、ごく薄くだけ触れてあげましょう。本格的にはNHCの聖書講座で学んでください。
イエスのその言葉は、生まれた時に受け継いだ性格や成長しながら身につけた性格をキリストを通じて語られる言葉に聞き従いながら直して神の願われる姿に近づくことを言われたものであり、旧約は旧約の次元で、新約は新約の次元で、成約は成約の次元でそのように変化することが各時代における復活なのです。

そうか、キリストは決して十字架の上でもご自身を引き渡した者たちの罪を赦すように生まれついた存在ではないんですね。
鄭明析先生も密林が覆う蒸し暑い戦場において、互いに銃を向け合ってもご自身が先に銃を下ろして駆け寄って祈ってあげた話や、自軍が出払って手薄になった基地に押し寄せる数十人の特殊部隊を瞬時に抹殺できる地雷のスイッチを握りながらも、押さずに済むように祈って息をひそめたという話をされましたが、イエス様の「敵を愛しなさい」という言葉を実践してそういう心につくられていたってことですね。

左様です。長い練達を経て皆キリストに近づいていくのです。
というわけで、今日も明日も復活して生きていきましょう。