神は慈しみ深く、愛をもって治められる

体験談

人は行ったとおりに報いられる

私の父は対話に必要な技術が足りず、人の言葉を聞き入れることなく一方的に話すことのみを覚えているがゆえに、むしろ彼の話を聞いてやる者がいなかった。

人の言葉を聞き入れない者は人からも話を聞き入れてもらえない。人は行ったとおりに報いられる。これはダビデの詩の中で言われているとおりである。

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。

詩篇18:25-26

それゆえ彼はメディアに浸る道を選ぶが、それはますます脳を衰えさせるだけである。

神が示す慈しみ

こうした類の者と対話の機会を持とうとしても易しくはない。先日もあまりに母の諫めは聞き入れず、むしろ逆上して幾度となく聞き覚えのある話を持ち出して母を罵り(それもまた彼の行いから来た報いであったのだが)、それでいて彼女の作った料理はちゃっかりと手元に運んでくる彼の姿に腹が立ったものである。

それゆえ私は祈った、

「彼は一度自身が家庭でしでかす『仕方がない』という行いを外部の人間にも行ってみたらよく、それに対する苦情にさらに逆上する素行を外部でも同様に行ってみたらよいでしょう。きっと半〇しにされて初めて自らが直さなければならないということを悟るでしょう。我々が言葉でしか言えないゆえに彼は我々を侮っているのです。いつまで我々ばかりが無念な思いをさせられて生きなければなりませんか」。

すると不思議なことに彼が私に向かって「いつも間に立ってもらって悪い」と言い出すではないか。

すかさず機会をつかんで私は「あなたは惜しむらくは対話がうまくない。人の話を聞くことができなければならない」と伝える。彼は「それは大いにその通りだ。私も職場でそれを経験している」と言うのであった。

神は決して義人の祈りに耳をふさがれることなく、かといって速やかに対象を半〇しにされるような目に遭わせることもなさらず、人間には全くもって不可思議なほどに限りない慈しみをもって接せられ、かつ心を変えてしまわれるのであった。

主はあわれみに富み、めぐみふかく、怒ること遅く、いつくしみ豊かでいらせられる。

詩篇103:8

神はこのように愛で治められる。アーメン。

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