人間の期待と実際の神の方法は異なる

独り言

聖書で見る神と人間の考えの違い

聖書を読むと、人間はこのように期待したが、神はあのように行われて目的を果たされるということが幾度となくあった。

癒やしに関するナアマンの期待と神の指示

イスラエルがソロモン王の後に南北に分かれていた時代、シリアの司令官ナアマンがライ病を患ってイスラエルの預言者による癒しを受けようと北イスラエルを訪れたことがある。彼は軍の司令官として、また王の側近として誉高き地位におりながらもその皮膚病のゆえに恥を抱いており、その治ることを切実に願って敵国の預言者の力にさえ望みを抱いて下ったのである。

ナアマンはエリシャが「神の名によって按手をしながらその患部を癒す」まさしく神秘的な力によって自らの病が癒してもらえるのだろうと想像したのであるが、実際のところはエリシャはナアマンを自ら出迎えることもなく、ただ使いをよこして「ヨルダン川で七回洗えば治る」と言っただけであった。

その自らの期待と現実になされたあまりにも平凡な指示との乖離のゆえにナアマンはエリシャの言葉を受け入れることができず憤激して帰還しようとしたとある。

しかし実際は正しかったのはその期待を抱いたナアマンではなくエリシャを通じて語られた神の言葉であり、侍従の者に強いられてヨルダン川で七回体を洗ったナアマンは自らの皮膚病が完全に癒されるしるしをその身に受けることでイスラエルの神の力を悟ることとなった(列王記下5:27)。

敵国の捕虜を扱う方法に関する王の期待と神の指示

同じ時代、北イスラエルの王ヨラムはイスラエルの預言者エリシャを捕らえに来た結果として自らの王都サマリヤに迷いこんだシリアの軍隊を目前に彼らを皆撃ち殺してしまおうと考えた。

しかし預言者エリシャに臨んだ神の考えは「大いに振る舞いを与えてそのまま返せ」というものであった。果たしてそれによりシリアの略奪隊は再びイスラエルに侵略してくることはなかったという。

首都を包囲された結末に関する高官の期待と神の方法

さらには再びシリアの王ベネハダデが軍勢を率いてサマリヤを包囲した際、都には飢饉が起こったが、神はエリシャを通じて「一日にして都に食料は満ち溢れ、飢饉は消え去る」と語られた。一方でその言葉を聞いた王の側近は「たとえ神が天に窓を開いてもそのようなことは起こり得ない」と言った。

ところが取り囲んでいたシリアの軍隊が地響きを聞いてエジプトやその他の国の大群が攻めてきたと錯覚して逃げ出すという事態によって一日のうちにそれは成った。

カナンの地でアモリ人を征服するためのヨシュアの期待と神の方法

ヨシュアの時代を見ると、イスラエルが五人の王と戦争をした際、夜戦に持ち込まれると不利になると見たヨシュアは日が空中で留まることによって自軍が敵軍を全滅させるまで時間を稼ぐことを願った。

しかし神はイスラエルの軍隊の集中を高めると同時に雹によって半数以上の敵軍を滅ぼし、さらに五人の王を恐れさせて洞窟に逃げ込ませてイスラエル軍がそれを発見させることで戦争の早期決着を図られた。

認識の誤りで救い主を死に追いやった

アダムから始まった六千年の宗教歴史は今に至るまで人間の責任分担である研究とそれに応じて神の与える霊感によって文明の発展を遂げ、今や一般の人々が享受する暮らしはかつての王たちの生活にも優るものとなっている。

しかしながら、

天が地よりも高いように我が道はあなたがたの道よりも高く、我が思いはあなたがたの思いとは異なる

イザヤ書55:9

と言われたように、神と人間の考えの差はどれほど文明が発展しようとも埋まることはない。

イエスが来られた時、旧約時代のユダヤの宗教人たちは

主は火をもって、またつるぎをもって、すべての人にさばきを行われる

イザヤ書66:16

あるいは

主は速い雲に乗って来られる

イザヤ書19:1

のような神そのものを待ち望んでいた。

しかし実際に来られたイエスは「おとめが身ごもって生まれ」た人間であり(イザヤ書7:14)、富める者にも、貧しき者にも、丈夫な者にも、病める者にも万民に救いを施されるために田舎生まれの「ナザレ人と呼ばれ」て低いところから来られ、そして新しい時代の御言葉の火と剣をもって無知と罪を滅ぼし(エレミヤ書5:14)、清められた雲のような群衆に囲まれて来られたのであった(ヘブル人への手紙12:1)。

それゆえユダヤの宗教人たちは妬みと嫉妬によって自らを救いに来た神の体を滅ぼし、しもべから救って子とならせようと彼を通じて現われた神の愛を拒んでしまったのである。

ある人の戦争での経験

この時代もある人は銃弾一発で瞬時に命が露と消える戦場において最前線で三年もの間従軍しながらも、一人も殺すことはなかったという。

互いに銃を向け合ったその状況では死に際に頭に響いた「愛しなさい」との神の言葉を守って銃を捨てて相手に歩み寄り、それによって相手も結局は銃を捨てて自らの命も相手の命も救うこととなった。

また周囲が不透明な状況の危険性から目の前のその人間を殺す方が得策とされる状況においても、その命を救ったことでむしろ敵の潜伏場所を発見したのだという。

またある時はやはり銃を向け合った相手を撃ち殺すより命を懸けて相手を生かしたことで結果として誰よりも多く銃を鹵獲して戦果を挙げることにもなったという。

この人とはNHCが属するキリスト教福音宣教会の創設者の鄭明析牧師のことであるが、彼は当時を振り返ってこのように話す。

私がもし戦場で人を殺していたなら今日のように神の聖殿を建てることは許されなかっただろう。また人の命を救いに導く務めにあずかることもできなかっただろう。

イエスの再臨に向けて

誤った認識を持っていては「正しい言葉を聞いても聞くことができず、正しい姿を見ても見ることができない」。

朽ち果てた死人がよみがえることはない。肉体が雲に乗って天から下りてくることはなく、また肉体が天の国に昇っていくこともない。

「再び来る」と言った主イエスは二千年前と同じ肉体で来られるだろうか。絶えず祈って自らの認識を下ろすことを聖霊に願い求めることが神の考えを受けるために必要なことなのである。

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