天国の位置づけ

ああ、天国行きたいな。

この調子で一生懸命信仰に励んでたら行けますよ。一緒に頑張りましょう。

でも天国って一番高いところにあるんでしょ?どれくらい頑張ったら行けるのかしら。

どれくらいと言われると、イエス様が二千年前に来られた時よりは頑張らないといけないんじゃないかと。

え、イエス様の時よりも?

はい。
天国については二千年前にイエス様が肉体をもって御言葉を伝えられた時代に自らが口にされ、またパウロが一部触れて聖書に記録されています。
それによると、パウロは「第三の天」と呼んでいます(コリント人への第二の手紙12:2)。

イエス様って天国行ったんじゃなかったっけ…?

主イエスはパラダイスに行かれました(ルカによる福音書23:43)。そこは天国の門が開かれるまでの間、新約時代イエスをキリストとして信じて救いを受けた者がとどまる中間霊界にすぎません。

(ν(ニュー)さん…僕はまだ詰まっていなかったのに…)

パラダイスと天国って違うんですね。知りませんでした。
じゃあ、サムエルとか旧約の預言者たちはどこに行ったんですか?

(あ…これは分からないや)

彼らが待機した場所は「地から上ってくるのが見えた」とあるように地上の善霊界なるところです(サムエル記上28:13)。
新約の時代にイエスが来られると、その中でイエスを迎えた者たちはイエスと共に新約の霊の世界、すなわちパラダイスに昇りました。
キリストが来ると旧時代の霊たちが霊界で迎える

イエス様が来られたら霊界でも変化があったってことですか?

左様です。チャーチル君、どうぞ。

(突然刺された…)
彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた
マタイによる福音書17:2-3
という箇所じゃないかと。

エクセレント。

ということは、イエス様が再臨されたらまた新約までの霊たちが霊界でイエス様を迎えて天国に行くってことですね。

またしてもエクセレント!
主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり
テサロニケ人への第一の手紙4:16
とあるとおりです。
神は妬むほどに人間を愛される

さて、キリストが来られると、彼を迎えた霊たちはより良い霊界に行きますが、このように歴史は繰り返すけれども、それは以前できなかったことを行うためにさらに高い次元で繰り返すのです。
神の前の人間の身分でいうと、時代が移るごとに人は神の御前にしもべであったところから子として認められるようになり、子であったところから花嫁として認められるようになるのです。

神様は愛の目的をもって人間を創られて今まで六千年間導かれたということですよね。

左様です。
わが口から出る言葉は虚しくわたしに帰らない
イザヤ書55:11
とあるとおり、神が人をただ有限な肉で終わらせるために人が創造されたのではありません。
それゆえモーセを通して語られた律法のうちの第一の戒めは
心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない
申命記6:5
でした。

なるほど、それで神様は虚しいものを愛するときに「妬む」とおっしゃったんですね(出エジプト記20:5)。

いかにも。
「妬み」というのはあまりにも愛するゆえに表された言葉であって、使徒ヤコブもまた
「神は私たちのうちに宿る霊を妬むほどに愛しておられる」と書いてあるのは虚しいことだと思うのか
ヤコブの手紙4:5
と話していますね。
愛するから共に住まわせる

天国の位置づけや神様が愛して人間を創造されたのは理解できたんですが、天国ってどれくらい頑張ったらいけるんですか?

その質問に直接答えることはできませんが、天国について一つ知っておいていただきたい観点があります。
神は愛するゆえにアブラハムを先に祝福を与えようと計画して導き出されました。また愛するゆえにカナンにおいて
自分で労しなかった地を与え、自分で建てなかった町を与えた
ヨシュア記24:13
のです。そして愛するゆえに
どのように子らのうちに置いて万国のうちで最も美しい嗣業である良い地を与えようかと思いをめぐらせた
エレミヤ書3:19
のです。

分かりました!神様を愛する者に神様が恵みとして天国を下さるのであって、自分の努力で行けるかのように考えてはいけないということですね!

左様です。
キリストのみが人類の初穂として時代ごとにその子たる身分を受けるにふさわしい、その花嫁たる身分を受けるにふさわしい条件を積むことによってその世界を切り開くのであって、それ以外の全ての人間はキリストという存在から学ぶ立場にすぎません。
時折「私は善霊界でも構わない」と自らの行いに寛容に接する人もいますが、不従順でありながらもなお「義の程度の差」によって「義人の住まう世界」に行くことができると考えるのは誤りなのです。与えるかどうかを決めるのは神なのです。

使徒パウロはそれで
他人に救いを説いておきながら私自身が失格者にならないために自らの体を鞭打っている
コリント人への第一の手紙9:27
と表現したんですね。日々
うむことなく聖霊に燃えて熱心に主に仕えて生きなければならない
ローマ人への手紙12:11
というのは生涯を義で全うしようと勤しんで生きたパウロの真実な告白なんだなと悟りました。