手に負えれば祝福、負えなければ禍 〜聖霊という助け主〜

独り言

信仰者は何が違うのか

信仰者がそうでない者と何が異なるかと言われれば、霊の世界を考えて生活しているかどうかだろう。

食べる、寝る、洗う、仕事をする、勉強する、掃除する、料理するまたは買う、一日のうちでこれさえやれば基本的に肉体が生きうえでは問題がない。

しかし、モーセや主イエスが言うように、

人はパンによってのみ生きるのではない。

申命記8:3

世の中に証があふれているように、そして我々自身が生きてくる中で幾度となく出会うように、

肉の体があるように霊の体もある

コリント人への第一の手紙15:44

ということを否定する者はそういないだろう。

霊である神の働きかけについて学び、神の創造目的を学び、霊界について学び、キリストや預言者やその他の中心人物を送って導かれてきた歴史について学ぶならばその深さは底が見えることなく、祈りと実践によりある時ようやく少し悟りを得たかと思っても、霊の人の考えを聞くならばまだまだ悟れていない自分の姿を見ることになる。

ことキリストが送られる時代というのは神は一つの時代を通じて唯一の肉体となるその者を通じて徹底的に語るべきことを語られ、行うべきことを行われる時であるから、その時には御言葉を聞くだけでも忙しい。

それに加えて天の国において神と共に住まうにふさわしいように自分自身をつくり、同時に福音を伝えて実体の歴史を成していくからには時間がいくらあっても足りないほどである。

自己管理が重要

信仰者の具体的な姿は聖書を読むと見て取れる。

キリスト・イエスは常に御言葉を伝えるか、群衆がいない夜から明け方に祈られていた。そして十字架の道を行かれながらも悲しむ人々に御言葉を伝え、十字架の上からでも自らの話よりも御言葉を伝えていかれたのであった。

使徒たちの姿も見ると日々祈り、賛美、証であり、投獄されれば手紙によって自分の事情を書くよりもキリストの姿と再臨の時のことについて教え、またどのように生きるべきかを伝えて過ごしたのが見て取れる。

パウロの路程を見ると、船に乗って移動したとはいえ十年やそこらで福音を伝えるために一万六千キロメートルほどは移動している。手紙にも賛美を忘れるなと書いたように、獄の中でも生活の一部として賛美をするパウロの姿が記録に残されている。

こうしてみると著名な信仰者たちは教えてばかりいるように思えるが、パウロは手紙の中で

自分のからだを打ちたたいて服従させる。そうしないと、ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になる

コリント人への第一の手紙9:27

と書いている。つまり、教えるばかりでなく、裏では自分が倒れないように信仰面で自己管理をしたことが見て取れる。

しかし、必要なのは信仰面での自己管理だけではない。霊のことで実を結ぶためには、肉体のための生活のみならず、自他の霊の存在のためにも祈り、賛美し、御言葉を聞き、行い、伝えて生きることをしなければならない。それゆえ精神は立っているけれども肉体が追い付かないということのないように、肉体の自己管理もまた必要なのである。

手に負えなければ禍になる

行うことは神の喜びであり、自らも良い方向に変化し、かつ自分という小さな存在を歴史の中で用いられる甲斐もあり、人生において霊肉共に得て確かに祝福である。しかし健康を失うなどして手に負えなければ禍になるのである。

もう少し話を広げよう。キリストを迎えることは最も大きな祝福である。キリストは神の御心を伝える人として神の言葉を秘密も愛も叱責も包み隠すことなく伝える存在であり、かつ行いでそれを体現される方である。そして神と人との仲保者として祝福もすれば裁きもなさり、自らが犠牲となって罪を覆ってくださることもすればその一方で徹底して教えることもなさるのが主の姿である。

キリストをキリストとして分別し受け入れることができれば、彼から御言葉を学び、それを行う生は肉の一生のみならず永遠な霊の祝福を受けるが、その生を手に負うことができなければむしろ苦役となり、不満となり、その生が禍となる。

自分の力だけでは手に負えない

人間の力は弱く、考えもまた低いものであるから、全てを自分の力だけでやろうとすれば多くの場合手に負うことができずむしろ害になる。

ところが神はキリストと共に助け主を送ってくださり、その助け主によって人を悟らせ、感動を与えて行うようにさせ、状況を変えて導いてくださるという(ヨハネによる福音書14:26、使徒業伝1:8)。

それがすなわち聖霊であって、血肉ではなく聖霊によってメシアも悟り、導くべき人に出会い、思いがけない大胆さで行い、神の前の愛の対象としてふさわしい生を生きることができるようになるのである。

そのような聖霊と共に生きる道があるが、これについてNHCが属するキリスト教福音宣教会の創始者たる鄭明析はこう話す、

祈りの真の有益は聖霊の感動を受けて行えるようになることである。

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