神の言葉は祝福であり裁きでもある

はあ…。最近説教を聞くのがおっくうだわ。

ハモニーさんがそんなこと言うなんて珍しいですね。いつも楽しそうに聞いている印象を持っていました。

前はいつも説教で話された御言葉どおりになるから楽しかったんだけど、この年になると聞いてて罪悪感も出てくるわけ。

「この年」って…ハモニーさんと僕は同い年じゃなかったですか?

まあ、それは置いといて、ヨハネが言ったでしょ?
義を行う者は自らの義なることが現れるために光に来ようとするが不義を行う者は不義が現れることを恐れて光に来ようとしない
ヨハネによる福音書3:20-21
説教を聞いて喜んでいる人もいれば、私のように自分の罪を刺されている気がしておっくうになる人もいるのよ。

パウロは御言葉を「良き知らせ」と言っているじゃないですか(ローマ人への手紙10:15)。苦しいのは一瞬だけだと思いますよ。

御言葉は悪い知らせにもなるのよ。モーセはこう言ってるわ。
私は今日あなたがたの前に祝福と呪いとを置く。
申命記11:26
神様も言っているでしょ。
私を愛する者には千代にわたって祝福を施し、私を憎む者には三,四代にわたって呪いを施す。
出エジプト記20:5-6
きっと私は呪われたんだわ。

おやおや、自暴自棄に陥られているご様子。

ν(ニュー)さんは肉体の欲がないし、最初から不自由のない天国にいるからこの気持ちが分からないんですよ。

いえいえ、その昔、この宇宙万物が創られる前のことになりますが、最後まで神の御旨に逆らった天使がいましたよ。天使も罪を犯すのです。
大事なのは神の愛を疑わないことです。そして、そのためにも正しく学ぶことなのです。
というわけで、ちょっとわたくしの話を聞いてみてください。

…はい。
神は愛をもって語られる

さて、神はいつも幸いと禍について話されました。
ある時は神の言葉に聞き従った結果として禍を免れることが祝福であり、その御言葉を軽んじて聞き従わなかったことで禍を免れられなかったことが裁きでした。
またある時は御言葉に聞き従って行うことで神が賞を授けて願っていたものを得ることが祝福であり、御言葉に聞き従わなかったことで神が祝福を与えずに願っていたものが得られない、あるいは剥奪されて他の者に与えられることが裁きでした。

なるほど、「直しなさい」と言われてぐさっと来ること自体が裁きではないということですね。

御言葉を受け入れた人のうちで行わなかった人が落胆するのは、祝福が遠ざかったことを見るから、あるいは取り戻すことが非常に難しいのを見るからですね。
なんだか食べ物が出された時に食べればよかったのに、食べないでいて腐っちゃったような感覚ですね。食べた人はおいしそうにするけど、自分は後悔だけが残るような。

左様です。神はご自身の御心に適う全ての人にとっての良きことのために愛をもって語られたのであり、恣意的に人間に興を要求されたのでもなく、初めから害されようとして語られたのでもありません。

でも、結果を先に教えてくださったら皆御言葉に聞き従うと思うんですけど、なぜそうなさらないんですか?

Good question!
ではもしどんなものが得られるかを聞いて従うとしたら、その人はその結果を愛したのでしょうか?それとも神を愛したのでしょうか?

その結果ですね…。

そうです。神はご自身を愛する者に祝福を与えようと御言葉を話されるのだということを忘れてはなりません。それゆえ神はその結果については話されないのです。
一度逃したら次はないかもしれない

とはいえ、その場でもらえないだけならまだしも、一度逃した祝福や機会がまたやってくるとは限りません。
わたしはすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けた。
サムエル記上16:1
サウルは切迫した場面で信仰が揺らいで自らの領分を離れるその気質が王としてふさわしくないと判断されたのです。

神様からまた信頼されるというのは大変な努力が必要になりますね。

左様です。ただ、それだけではありません。
時に適ってもらえる祝福もあるということです。
神がなされることは皆時にかなって美しい。
伝道の書3:11
そのうち最も大きなものはなんでしょうか?

なんだろう。大きな使命でしょうか。

惜しいですが、違います。

ひょっとして、福音自体ですか?それはつまりキリストを通じて神のもとに帰る機会を与えられたということです。

エクセレント!
あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
イザヤ書55:6
イザヤがこう言ったように、神はいつも訪ねてこられるのではなく、その人の準備が整っているその時に訪ねてこられるのです。
無論パウロが語ったように、万物によって神を悟ることはできるのですが(ローマ人への手紙1:20)、福音という分かりやすい形で訪ねてくるのは時があります。

その中でも最も貴重な時というのは、キリストが肉体を取って来られて福音を伝えられる時ですね。その時は時代ごとにたった一度しかありません。

いかにも。イエスがいつ、どのように再臨されるかはNHCに通うお二人ならご存知のはずなので割愛しますが、イエスを迎える機会を逃さないようにしましょう。

これから来るさまざまな機会を逃さないようにいつも祈って準備します!