好きで選んだのにすぐ飽きる現象

はあ、私って飽きっぽいのかしら。この服、数ヶ月前に買った時には「いいな」と思って即買いしたのに、もう飽きてきちゃった。

僕もそういうことありますよ。
買う時には素敵に見えたのに、後で見てみるとなんだか地味に見えたり、逆に自分が着るには派手なように見えたり、年齢不相応に見えたり、品がなく見えたりして結局少ししたら着なくなっちゃうんですよね。

良かった。私が特別飽きっぽいわけじゃないのね。
こういうのって結婚相手とかも一緒なのかしら。好きなタイプだと思って結婚したのに、それが本当に良い選択とか限らないのかも。

け、結婚…!?いや、僕まだそういうの考えたことないから…。

え、何?考えちゃいけないわけでもないでしょ。

結婚相手を一時の興奮に従って選んだ結果、数年も経たないうちに心が合わなくなって破綻する、あるいは破綻せずとも冷めてしまっているというのは割とよく聞く話ですね。

そうそう、そういうこと…って、ν(ニュー)さん!

チャーチルさんの戸惑いが伝わってきたので、わたくし、とっさに助け舟を出してしまいました。

わざわざ来ていただいてなんですけど、この程度の話にνさんの時間を割いてもらう必要はないかなと…。

まあまあ、そう言わずに語らせてください。
この類の話は信仰についても通じるものがあるのです。しばし自らが求めていたもののようで、次第に慣れてくると感動が冷めて、あるいは困難に直面して、疑問が生じて途中で信仰を放棄してしまう人も数えきれないほどいるのです。

なるほど、洋服ならまだしも自分の霊の救いを左右する信仰については深刻ですね。
選択を間違える原因

(ピカッと真理の力で変身)
さて、すぐに飽きてしまう洋服もあれば、歳月が経っても色あせず、むしろ一層好ましく思えて着る洋服があります。
同様に、初めは自身の好みからは外れていると思ったが、後になればなるほど一層愛が深まる相手もいます。
また、困難があっても最後まで信仰を保って天の国に入る人もいます。

いつもそんな選択をできたらいいですが、失敗の方が圧倒的に多いです…。

心配ご無用。わたくしはそうした最良の選択をできるようになっていただくために参ったのです。
ずばり残念な結末を迎える原因は何かというと、それは肉の考えは気分や雰囲気によって変わるため、あてにならないということです。

神様や聖霊様はその場の雰囲気では行われず、いつも御心をもって行われますね。

左様です。
洋服を買うこと一つ、あまりに小さいことのようですが、これも将来まで見通し、霊の水準で見たときに最もふさわしいものを下さるのです。
それゆえ自分自身が時と共に一層神の品性を好むようになるにしたがって、ますますその得たものが好ましく思えてくるというわけです。

生涯の縁を結ぶ相手についても、御心を追い求めて聖霊によって選んだときに最も満足する相手と巡り合えるんですね?

そのとおりです。当初は自らの肉の好みに照らせば外れているようにも見えるかもしれませんが、神の御心を成そうと自分自身を磨いて成長することで考えや行いの水準が合い、そのうえでその二人の間にしかない互いの個性が調和を成すことで理想世界が成されるようになっているのです。

二人が喧嘩することはないのでしょうか?

大いにあります。

あるんだ…。

はい、覚悟しておいてください。
ただ、一時的な不和に陥るとしても、神が引き合わされたという確信があるならば、その不和もまた神と共に分かち合うべき経緯であって、平和の神と聖霊がそれぞれに話して再び和睦を成せるようにしてくださるでしょう。
最後まで信仰を保つには

ところで、信仰についてはどうやって困難から来る疑心を乗り越えることができるのでしょうか?
神が定められた肉の愛の対象が一人であるように、霊における愛の対象もまた神と御霊と御子およびキリストのみであって、途中で他の道に行ってはまずいです。

はい、チャーチルさんがおっしゃるとおり、
永遠の命とは神と神が遣わされたキリストを知ること
ヨハネによる福音書17:3
です。
困難を乗り越えるためには、自身が歩んでいる歴史が神が導く歴史であると確信することが重要です。そのためには二つの心得が必要です。
まず、信仰というものは一日にして変化をもたらすものではありません。結婚と同様に日々の生活の積み重ねであって、その積み重なる愛と義の行いが自らの体質を刹那的な肉的なものからより優った霊的なものに変化させ、嗜好を変化させ、霊の変化をもたらすのです。
また毎日信じがたいしるしが起こるわけでもありません。自らの神に対する祈りと感謝、賛美などの愛の行いと人間として努力すべき責任分担を果たすことにしたがってさまざまに神がしるしを見せてくださるのです。

なるほど、瞬間的な奇跡や恵みを頼りについて行くのではなく、日々御言葉に従って地道に信仰生活をすることで、少しずつ御言葉どおりに成される神様の働きかけを確認していくことが重要なんですね。
信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである
ヘブル人への手紙11:1
ってパウロが言っていたのがしっくり来ます。

そう言えば、
あらゆることにおいて霊によって判断しなさい
ってキリスト教福音宣教会を創られた鄭明析先生も言ってたわ。
人間の考えは揺れる葦のようだから、生活においていつも神様に従いなさいってことだったのね。

いつも神やキリストと同行する生活が大事、この基本が分かったなら今日の講義の甲斐があったというものです。
では、今日も実直な信仰生活をお過ごしください。