神は豊かに愛を受け、豊かに与えて天国を成す

独り言

弱い人々に手を差し伸べて蔑まれたイエス

二千年前、キリストが初めてこの世に遣わされた時代、キリスト・イエスはイスラエル民族ではなく、

神を求めない者たちに見いだされた。

イザヤ書65:1

彼のもとにはペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネのような「異邦人」もおれば、取税人や娼婦など宗教人の間では卑しい者として扱われた人々も集った

イエスご自身が貧しい生まれであったので、そうした弱い人々の苦しみを全て分かって共に過ごし、御言葉を伝えつつ共に行って救いの手を差し伸べられたのでった。

それにもかかわらず、それらの人々の苦しみを知らず、救いの手を差し伸べなかったユダヤ人はそれらの人々と交わっているイエスを蔑んで

なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか

マタイによる福音書9:11

と言い、そのユダヤの「兄弟」を愛することができずに永遠の不信の罪を負うことになったのであるが、そうした認識をひときわ目立たせる出来事がイエスがパリサイ人シモンと食事をしておられた時のことであろう(ルカによる福音書7:36-50)。

イエスにとってパリサイ人と食事をすることは自らの使命を全うできずに失われたバプテスマのヨハネの代わりにご自身を証することのできる足台を築くまたとない機会であった。

しかし、そのかけがえのない機会に町でよく知られている一人の娼婦が突如押しかけ、イエスの足を涙で濡らし、髪の毛で拭って香油を塗った。シモンはその異様な光景を前にその娼婦を「それは罪の女だ」と卑しい者として眺めたが、イエスはその女を退けることなく「女がより多く私を愛した」と話された。

神は限りなく愛を受け取って報いられる

イエスはキリストの使命をもって神を証し、天国の希望を人々に教えられた。イエスが語られる神の証には力があり、その語られる神の姿には愛があり、それゆえ人々は神を信じ、さらには神を父として愛するに至った。

しかし、同時にイエスはキリストとして人々から罪の行いを滅ぼされるために罪についても詳しく話され、人々に悔い改めることをも多く教えられた

それによりイエスの言葉を正しく聞いた者は神を愛すると同時に自らの罪について常に自覚が生じるようになり、希望を抱きながらも理想の姿になれない自らに葛藤を抱き、あるいは心を入れ替えて熱心に愛したけれども過去の罪に悩まされて自身が神に愛されているのかと思い悩むこともあったことだろう。それは使徒パウロが自らの書き送った手紙で告白しているとおりである(ローマ人への手紙7:21-25)。

イエスが語られた譬の中にこのような話があった。祭司と取税人が共に宮に上ったが、祭司は「私は熱心に捧げものも断食もしており、卑しい者ではないことを感謝します」と祈り、取税人は「神よ、私は罪びとであって、赦しを求めます」と祈った。この二人のうち覚えられた者は取税人であったという(ルカによる福音書18:10-14)。

先の娼婦はイエスの前で涙を流しながら尽くしたとあるが、イエスは彼女の行いに対して「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」と答えられ、かつ「愛された」と話された。その女はイエスの御言葉を聞いて神を愛し、神が共にされるイエスを愛しながらも、自らの罪の自覚に苛まれていたのだろう

ユダヤの宗教指導者たちは選民思想で教義に偏り、自分の地位を気にし、異性をただ異性として見てその娼婦を卑しい目で見たが、イエスの肉体を来て来られた神は愛をただ愛として受け取られた。あまりにも神を愛して共にいることを願いながらも自らの瑕を気にして思い煩うその真実な愛を抱くとき、神は

たとえあなたの罪が緋のようであっても雪のように白くなるのだ

イザヤ書1:18

とその愛を喜んで受け取ってくださるのである。

神はどれほど私たち人間が愛したとしても「負担だ」とはおっしゃらない。むしろそれらを全てを受け入れられ、かつそれよりさらに優る愛でいつも愛してくださるのである。

イエスは分別のない人間であったわけではない。しかしその女を罪の女として扱って辱めて帰すこともなく、「度を越えている」とおっしゃることもなく、その女なりの愛を全て愛として受け取ってやることでその女の苦しみを解き、同時に赦しというかけがえのない賜物をもってその愛に応えられたのである(無論キリストに接するにあたり秩序や礼節が求められることは言うまでもない。高貴な方は高貴に迎えてこそそれを見ている人々の前でもその方が貴ばれるものである)。

限りなく、そして真に純粋に愛を受け取られるその神の器、そして神の肉体として生きるキリストのその器こそ、飽き足りることのない愛によって限りなく発展していく地上天国および天上天国を成すことのできる秘密なのである。

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