自己満足は自分の位置を離れること

独り言

安息日に見た夢

安息日の朝に悪夢を見た。水中にいたが、巨大な亀のような生き物が泳いでいた。それと戦っていたのであるが、どこかそれまでとは異なる戦い方をした。それによりその四角い大きなプールの片隅に追い詰められた。小さなクモが飛び跳ねながら近づいてくる。しかし逃げることができずにそのクモが私の体に飛び乗ってくる。身の毛がよだつ思いをしながらもまた逃げる。

苦しさに上を見るとその水槽は閉じられており、息をするために浮かび上がることもできない。混乱する。それまでなら効率良く戦って既に勝って終わっていただろう。自分の動きを変えたことでこのようになったのだ。クモのような生き物がまた迫ってくる。先ほどより大きい気がする。戦わなければならない。そのザリガニのような腕をつかんだところで夢は終わった。

礼拝を捧げる準備をして歯を磨きながらもどこかの国の暴力に考えが向いてしまっていた。夢が何の啓示であるかは分からなかった。

説教を聞いて夢が解けた

礼拝が始まり、集中して説教を聞いていたが、どのような話がきっかけだったか、急に明け方に見た夢の啓示を悟るようになった。

聖書においてイエスを証する立場として生まれながらもその役目を果たすことをせず、イエスとは行動を共にすることなく活動を続けるうちにいつしかヘロデの婚姻に口を出したことで投獄され、遂には処刑された洗礼者ヨハネの話が思い浮かんだのである。

近頃の知らせは悪人がやりたい放題行う残虐この上ない世界の様相を映しているが、その事に私が関心を払いすぎることは神の願うことではないということであろう。いつしかそれによって私的な感情から私が生きておられるキリストと共に福音を諸国に伝える使命の道から逸れていくならば、その末路は洗礼者ヨハネと同じものとなるという神の警告がその夢の真意だったのだろう。

水に浸かっている、あるいは溺れている夢は自分の考えに溺れている自身の姿を映しているものだとも主は言われる。上の閉じられた呼吸のできない水槽が夢の解釈をより確からしいものにしている。

自分の位置を離れてはいけない

ヨハネにはヘロデ王の恋愛を正すよりもずっと価値のある神が啓示して直接与えた使命があった。自己満足は自分が受けることを願う栄光であり、神が福音の働きをする中で賜ろうとする栄光とは異なるものと言えるかもしれない。

鄭明析は言う、

神が自分自身に賜る栄光はそれだけでも一生享受しても享受しきれないものであり、他人の栄光まで線を越えて手を出してはならない

聖書で言うならば、

日が受ける栄光、月が受ける栄光および星が受ける栄光があり、それらは皆異なる。

コリント人への第一の手紙15:41

それゆえ人は神が各自に賜る栄光をもって満足とすべきなのである。

自己満足に陥らないためには

「ヨハネはおるべき位置を離れた」。真理は明解である。しかし聖書に出てくる人々と同じような境遇に置かれてみると自分が容易に同じ過ちを繰り返す可能性があることに気付かされる。洗礼者ヨハネもまたローマの属国として統治を受けるイスラエルに生きながらどこか神の律法に基づいて生きる者として許しがたい悪を目にしていたのだろう。

自己満足と神から賜った使命を秤にかけたとき、正しい選択をするためには二つが必要なのではないか。一つは神が下さるものの価値を考えることであり、もう一つは神の御旨があり、それを成して差し上げようとの神に向かう愛があって、それゆえその御旨のために主と共に集め、散らしながら福音を伝えるのだということである。

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