時代の冬と希望が成就する春

独り言

冬の凍える寒さ

最近になって急激に寒くなった。今日などは寒すぎて毛布を被って祈り、布団の中で賛美し、一日中布団の中でノートPCを開いて仕事をしていたほどであった。暖房を点けるも、これほどの寒さでは布団から抜け出させてくれるほどの効果はない。家の中でパーカーを着てフードを被っていなければならないほどであった。今もまた布団の中でこの文章を書いている。

英国でも一度ボイラーが故障し、外気の温度が一度という中で丸一日唯一の熱源が自分自身という日があったことを思い出す。

しかるに私は思った、なぜ冬はこんなにも寒いのかと。いくらなんでも度を超えているのではないか。神が冬というものを創られたのであるが、寒すぎて憤りそうなほどであった。

夜になって走りに行ったが、これほど寒くては外に出るのをためらわずにはいられなかった。それでも老後を思い、心を強くして外に出たが、冷たい空気で肺が縮んで少し息苦しさを感じ、冷たさで膝が固まって衝撃を吸収できずに痛みが出た。

しかし裏起毛の運動着と走る時の熱で最終的にはそれほど寒いと感じることなく帰ってくることができたのは幸いであった。

時代の冬

冬がなければ害虫が死滅しないだろう

と鄭明析が言われたことを思い出す。確かにハエのようなものが一年中存在し続けたら増えすぎて大変なことになるだろう。それと同様に冬がなければ草も枯れることなく土が常に養分を与える状態となり、やがては土壌が枯渇することにもなるだろう。

古いものが枯れ、土も休み、そうして春になれば新しいものが生まれてくる。そのように万物は季節に従って循環する。

また時に従って地上にも艱難が押し寄せる。艱難は義人も悪人も共に受けるが、

最後まで耐え忍ぶ者は救いを受ける。

マタイによる福音書10:22

義人も悪人も皆艱難によって死ぬけれども、復活の時になれば神は義人のみを蘇らせ、悪人は死んだまま終わるようになさるのである。

こと終末の時には「かつてないほどの艱難が押し寄せるであろう」とイエスは言われたが(マタイによる福音書24:21)、その預言のとおりにさまざまな災害や戦争、偽キリストなどが「世の終わり」と言われた二千年を前に襲いかかった。

しかし何より信仰者たちを襲った艱難は、自らが信じたとおりにはキリストが再臨されなかったことだろう。すなわちイエスがイスラエルを巡って福音を伝えられていたその当時の姿では来られなかった。「神が時を遅らせられたのか」、「聖書は偽りだったのか」、多くの信仰者が希望を失い、急激に火が冷めていった。

神も旧約においても新約においても(黙示録21:1)このように話されていた、

私はもう一度天と地を震わそう。

ハガイ書2:6

パウロもまたこのように言った、

主が来られる時には火でもって各々の信仰の家を試みられる。草や木で建てるのか、岩や金によって建てるのか、何によって建てるのかを考えるがよい。

コリント人への第一の手紙3:12-13

時代の春と希望の成就

しかし希望がなかったわけではない。これらの艱難が成就したならば、

これらの後に人の子が雲に乗って来るのを見るであろう

マタイによる福音書24:30

と言われた預言もまた成就したのである。

人々が思っていたような有様ではキリストは来られなかったが、「イエスが天に昇られたと同じ有様で」また人の子は来られたのである(使徒行伝1:9-11)。

二千年という人間にとっては長い歳月、時が経つにつれて既存の福音に新鮮味を失い、人間の本能から新しいものを求めてなんとか聖書を知ろうともがき、自らが祈って思い浮かんだその考えがその新しいものとなることを無意識のうちに願ってか、いつの間にか信仰は神秘がかった刺激的なものへと変化していったのかもしれない。

そんな中、

人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。

ヨハネによる福音書6:63

というイエスのこの言葉に基づいた(他にもたくさんあるが)鄭明析の福音は刺激的なものではなかったかもしれない。肉における劇的な変化ではなく、肉の行いに応じた霊における変化を中心とした教えは反感を買い、異端視され、無視された。しかしその教えは肉の行いに焦点を当てるため、地に足の着いた心と行いの変化をもたらすものであった。

人は赤子をこの世に迎えるように一生を生きる間神と聖霊と主を愛して御言葉を行って清く生活し、人格を磨き、感謝し、賛美し、救いを人々に宣べ伝え、時に傷つき、さまざまに困難にも打ち勝ちながら神との経緯を築き、神の御心に沿う中で多様に挑戦しながら自らの能力も開発してこの世でも楽しみを享受して生き、そうやって自らを完成させて永遠な霊をつくるのである。

時はめぐるが、最も良い時というものもある。歴史においてキリストが肉体をもって共にされるその時、そして今この時が御言葉が時と共に与えられることで歴史を最も実感が湧くように生きることのできる時でもあり、また再び来られた主イエスの姿を目の当たりにしながら自らをよく変化させることのできる時なのである。

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