神の恵みは不公平?

神様は行いどおりに下さると言いますが、最近周囲の人がいろいろ祝福を受けているのに僕は特段もらえてないなあと思うと、少しだけ寂しくなります。
もちろん僕がそれだけ神様の願いどおりに生きられてないということなんでしょうけど…。

あ〜、Nさんが先日海外で奉仕活動したら、他の人は炎天下で教会建築の作業したのに、Nさんだけ売店の手伝いで涼んだうえに、売店の先輩におごってもらっちゃったとかあったね。

Hさんはスポーツサイクルを知り合いの人がもう使わないからとただで譲ってくれたらしいです。Cさんは抽選でハイスペックなパソコンが当たったとか。

いいなあ〜。私も毎朝お祈りしてるし、聖書たくさん読んでるし、いろいろやってるんだけどな。
あ、分かった!きっとあれよ!
先の者が後になり、後のものが先になるであろう
マタイによる福音書20:16
ってやつ。神様の恵みって実はふこ…。

ハモニーさん、それは違います。今「不公平だ」とか言おうとなさったでしょう?

へ…?(危うく言うところだったわ…)

お二人とも、いつもあれほど聖書を教えて差し上げているというのに、いまだ神の祝福の根本を悟っていないとは、わたくし、見るに耐えず姿を現してしまいました。

う…。(痛いこと言われた…)
恵みは成長に応じて与えられる

単刀直入に言うと、神は成長の度合いに応じて接せられるのです。
幼子には幼子にふさわしく恵みを賜い、とにかく喜ぶようにいつも人を通じて、環境を通じて豊かに与えられることもあります。
しかし神の心に寄り添おうと近づく者に対しては夢の啓示や人をもって懲らされもし、また人を通じて祈りの中で神の悲しみを悟るようにもし、困難に直面しても愛ゆえ寛容と忍耐をもって過ごすことを教えられもします。

それは簡単に言うと、子供にはアイスとかおもちゃとか何か物で喜ばせてくださることが多いけれども、大人になると物というより神様の心を分からせるってことですか?

まあ、そんなところです。
もちろん大人になったら物を賜わらないというわけでもありません。ときにはその御言葉に従って行って何か願っていたものを得ることを通じて神が愛して豊かに与えられること、また共に使うことを喜ばれるということを教えられもします。

言われてみれば、たくさんもらって喜ぶってなんだか子供っぽい気がします。

私、うっかり悟ってしまった…。神様の心を分からせるっていうのは、つまり神様と一緒に暮らせる人になってほしいということね。

…!?(この子、先程ダダをこねようとしていた子と本当に同じ子なのか…!?)

なんだかこの話って、時代に従ってしもべから子供に、子供から花嫁へと神の前の人間の立場が移り変わって、人間の神様への接し方により高い水準を求められることにもつながりますね。
生贄とか割礼とかの象徴をもってなんだか分からないけど言われたとおりに神様に接していたところが、新約時代はそれを廃止する代わりに心の中まで従順になることが求められて、最終的には自ら愛して心を分かって接することが求められて。

(チャーチル少年まで…。子供というのは、侮れませんね…)
お二人とも、お見事です。そこまで悟ったなら今日はもう言うことはありません。
ハモニーさんが引用した箇所について言えば、あれは参加賞のようなものについて言ったのであり、天国における住まいのような報奨について言ったものではないので、ご安心ください。

何ももらってないとか思ってたけど、実はいろいろ悟ることはあって、その意味で神様と暮らすうえではより良い賜物をもらっていたんですね。
「不公平」とか言おうとしたことを悔い改めます。

僕もです。νさん、気づかせてくださってありがとうございました!