イントロダクション
2018年、ある中年に差し掛かったNHC在籍の男が真理と街に徘徊するポケモンを求めて街を彷徨ううちに西早稲田の八幡神社に迷いこみ、初詣の神ではなく、深い祈りと聖書の神との交感の最中に脳に天啓を受けたのであった。
今を生きる若者たちにこそ、New Harmony Churchのありのままの姿を伝え、そのスタバに向かう足を教会へと向かわせなければならない。
とにかく、若者たちにこそ、ここNHCに体現されている教会の真の姿を伝えたい。教会がいかに多様性に富み、各自の個性が生かされ、互を容認し、相互に助け合う素晴らしい環境なのかということを。それがこのNHCライジングである。
ロバに乗ってくる方に藁を持ってホサナ! っていう練習を欠かすことない皆さん、こんにちは。早稲田NHC(何故かハゲてしまうキャンディー)教会、ブログ担当ナマ☆タマゴでございます。
今日も信仰を、聖書を少しでも身近に感じていただく為、こうして駄文をしたためる次第であります。
聖書は神様からのラブレター
今まで聖書について極浅く触れてきました。
多少なりとも聖書が遠く離れた地に住む、ヤギを屠ったりロバに乗ったりするヒゲのおじさんたちのものではなく、現代、日本に生きる我々にも関係しているものなのだということがご理解いただけたでしょうか。
「少年ジャンプの過去のマニアックな漫画の知識がちょっと増えただけだ」と言われてしまえば、私の不徳のいたす限りなのですがそうなのです。そのつもりでやっています。
ところで、「聖書って一体誰が書いたのだろう?」そう考えたことはありませんでしょうか。私が聖書を学び始めた時も、別に信仰を求め真理に飢え乾いていたわけではありませんでした。どちらかといえば知識欲。
それでも学ぶ中、ある一言に衝撃を受けるのです。それはこんな言葉。
「聖書は神様の人間に対するラブレターなのじゃよ」 (語尾が亀仙人のようになってしまったのは、なんとなくその方が言葉に重みがでるからです)。
この言葉を聞いた時になぜか、聖書を通して神様が自分に語りかけたがっているような感覚を覚えました。 スラムダンクの安西先生風に言うなら、
「とりあえず、君は聖書で日本一の高校生になりなさい」
でしょうか(当時私は高校生ではありませんでした)。
元々神は実在すると思っていた派の私ですが、神が自分に対して何がしかのアプローチをしているなんてことは想像したこともありませんでした。神とはただそこに超然と存在している何かのように想像していたので。そう考える人も少なくないと思います。
聖書という大昔の書物。でもそこに書かれている記述を通して神様は私たちの脳に、認識に、考えに働きかけて人生をより良い方向へと導こうとしている。神様は私たち一人一人それぞれに話したいことがあって、でも肉体が無いから話せない。
「さあ、そこの少年、早くその書物を通して私の話を聞いてくれ」。
そんな風にやきもきしている人間臭い存在が神様だったら、ちょっと素敵だと思いませんか?そういう風に私自身もいつの間にか認識が変わっていたりしました。
ということで、聖書は神様の手によって書かれていると言ってもいいのです。
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
テモテへの第二の手紙3:16
私自身もなるべく神様が話したい事を書ける様に願い、祈りを込めて文章をしたためていますが、いかんせん普段の生活がアレなのでどこからか変な電波を拾ってこないか心配でたまりません。