キリストと預言者は見分けがつきにくい

キリストって真剣に考えてみるとどうやって見分けていいか分からないなあ…。

キリストは人間で、その人の肉体に神が臨むことによってさまざまな奇跡を起こして、そのうえで罪の赦しの権威と神様の御言葉を持ってくるって思ってたけど。

僕もそう思ってたんですけど、聖書を改めて読んでみると、実際イエス様は病人を癒やして、死人を蘇らせて、罪を赦して、説教は聖書にもなってますけど、当時は多くの人がイエス様をキリストとして認識できませんでした。
キリストが新約時代までにはイエス様一人であったのに対して、預言者はバプテスマのヨハネを含めて多くの者が送られたので、人々は預言者についてはなんとなく経験的に分かったけど、キリストについては分からなかったようです。
キリストも預言者も神様がその人を通じて御言葉を語られますが、両者の間では何が異なるんでしょうか。

そう言われるとそうだね…(そろそろ来る頃かしら)。

これはこれは、なんとも大切な話をしておられる様子。キリストについて分からないと言われては、わたくし、出てこないではおられません。

(やっぱり来た!)

ν(ニュー)さん、いいところに!早速教えていただいでもよろしいですか?

もはや頼まれずとも強引に語るつもりでしたので、ご安心ください。
まずは預言者という存在について改めて聖書で見ていきましょう。サムエルが預言者であることがどのように分かったかというと、このように書いてあります。
主が彼と共におられて、その言葉を一つも地に落ちないようにされたので、人々はサムエルが預言者として定められたことを悟った。
サムエル記上3:19-20
他にも似たような記述がありますが、ご存知ですか?

エゼキエル書にも
この事が起る時――これは必ず起る――そのとき彼らの中にひとりの預言者がいたことを彼らは悟る
エゼキエル書33:33
とありますね。

エクセレント。
ノアの時から始まりその性質は変わることなく、神が彼らを通じて語られるゆえその言葉は必ず成されるのです。

アーメン。でも、キリストについてもイエス様が
天地が滅びても私の言葉は滅びることがない
マタイによる福音書24:35
っておっしゃっていて、それだから当時の人々はイエス様を見て「預言者ヨハネのようだ」と言い、あるいは「イエスも預言者だ」と話していたんですよね。
イエス様がキリストであるとはっきり悟った人は初めてそれを告白したペテロとその他のごく少数の弟子たちだけでした。

祭司長や律法学者、パリサイ人やサドカイ人たちもイエス様の数々のしるしの上にさらにしるしを求めたけど、結局は悟れなくて十字架の道に追いやっちゃったよね。
その目は見ても見ることができず、その耳は聞いても聞くことができない。彼らの心が鈍くなっているからである
なんて預言があったけど…。
キリストにあって預言者にないもの

ではいろいろ考えてみましょう。キリストは罪を赦すことができる権威を持っているから異なるのでしょうか、霊界のことを詳細に話すから異なるのでしょうか、「奇跡を預言者以上に起こせる」から異なるのでしょうか。
これらを備える人がいれば理論的にはキリストだけれども、実際は認めることができません。なぜだかお分かりですか?

確かに…。例えば罪を赦されたことってどうやって分かるんだろう。
夢で汚いものが洗い流される啓示を受けることかな。でも夢を見たからキリストだと認めるんだったら、時間が経って夢を忘れたらまたキリストを分からなくなっちゃうような。

霊界についてたくさん見て言葉のとおりだったから認めるという場合は、たくさん霊界を見れない人は悟れないのかな。
奇跡に関しても、キリストにできて預言者にできないものって何だろうとか、どのくらいたくさん起こしたらキリストだと言えるんだろうとか、しっくり来ないですね。

キリストが預言者と異なるのは、新しい時代の神の御心、すなわち神が人間に対して神にどのように接することを望まれるのかを教えることです。これには罪について詳しく教えることも含まれます。
イエスは神の子となる身分を授けるために来られ、旧約の御言葉の根本を教え、そこから発展して子たる身分を受けるに該当する御言葉を人々に伝えられました。
それ以外のもろもろの御業は、その教えを聞かせるため、裏付けるための補助的なものにすぎないのです。

そっか、奇跡はまず神様が送った人だと認めてもらって御言葉を聞いてもらうために行うってことですね。

霊界を詳しく教えるのは新しい御言葉がそのとおりだというのを夢や霊界で見て確認するためですね。
でも罪を赦すというのはまだ分かりません…。

罪が赦されたかどうかは夢でトイレで排泄物が流されるような啓示があったりはしますが、ほぼ間接的にしか分かりません。
例えばうまくいかなかったはずの物事が急にうまくいったりするなど神の働きかけが強くなることで肉界の変化として現れるものです。
それでも罪を赦されたその人は霊が解放されるため、肉界で体質になった悪い行いを変える努力をすれば抜け出すことができるようになります。

なるほど、
不従順な霊たちが獄に閉じ込められていた
ペテロの第一の手紙3:19-20
ってありますね。
キリストを認めるには

じゃあ、結局、新しい時代の御言葉を聞いたならキリストだと認められるということになるでしょうか。

でも、キリストを認めるって救いに関連する気がするから、新しいと分かるだけでは十分じゃないと思うな。

さすがです。
キリストを認めるにはキリストの目的が成されたことを体験しなくてはなりません。目的とは何かというと、
御子を私たちのうちで長子とならせるためであった
ローマ人への手紙8:29
とあるとおりです。
すなわち、キリストの言葉を聞いて神を子供の時代ならば子供として愛してそれにふさわしい行いを、新婦の時代ならば新婦として愛してそれにふさわしい行いを自らが行うようになったことを悟ることによって、その変化を来たらせたその方をキリストと認めるようになるのです。

それって、例えば、ある名監督が自身の獲得したトロフィーを見せるからといってそのトロフィーを見た自分がその監督の腕前を実感することはできないのと同じですね。
あれこれ繰り出されるたくさんの戦略を聞いても、自分のやりたいようにだけ行動していたら試合の結果は変わらずその監督の腕前を実感することはできません。
その戦略を聞いて、その戦略に沿って自身が試合において行動した結果として勝って、勝ち続けるなら、そのときに初めてその人が名監督であることを認めることができるって感じでしょうか。

左様です。
いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
ヨハネの黙示録22:14
天国に行く者は衣を洗い清めた者だけだとも書いてあります。「洗い清める」というのはその服を着る人の能動的な労苦を意味するのであって、誰かが洗って着せてくれることを意味するものではありません。
神を分かった結果として神を愛して振る舞い生きるようになった自らの変化こそ、自らにとって最も確かな証となり、最も明確なしるしとなるのです。

なんだかすごいグッと来ました!新しい時代の御言葉を聞いて実践あるのみですね!

ふう、お分かりいただけたようで幸いです。では、わたくしはまたキリストを説いて回らねばならない気配を感じ取りましたので、そちらに急行します。ご機嫌よう。