神が用いられた王を愛した人の理不尽に見える死

な、情けない…。

顔が歪んでいるけど、一体何があったの…?。

母が聖書を読んでいたのですが、母が僕に「どうしてヨナタンは死ななければならなかったの?」と訊いてきたんです。
でも、分からなくて…。

ヨナタンってサウル王の息子で、神様がサウルの後任として選んだダビデを愛した人だよね。最期はサウルと一緒にギルボア山でペリシテ人に討たれたんだっけ。
確かに不思議だよね。ダビデを殺そうと狙うサウルからかばってくれた人なのに戦争で死ぬなんて。

なんとなくだけど、ヨシヤ王に似た話なんじゃないかなって思うんですけど、説明できないんです。母になんとか信仰を植えたいんですけどね。

チャーチル君のお母様は愛が深そうだから馴染めるんじゃないかと思うけど、そういう人が意外と信仰については頑なだったりするから難しいよね。
ヨシヤ王についてはNHCの聖書講座でも出てきたけど、確かにヨシヤ王が神様を愛したのに戦争であっけなく死んで、ヨナタンは神様が使う人を愛したのに戦争で死んだという点では似ているね。

困った…。

困ったねえ…。

というわけで、わたくしが参りました。

誰…?

ここらでNew Harmony Churchに通う聖徒たちに聖書を分からせるべく配置された天使のν(ニュー)です。以後お見知りおきください。

νさん、よろしくお願いします!

では今日はお二人が今疑問に思っておられる、なぜヨナタンは理不尽にも討ち死にしたのかについてお話ししましょう。そしてお二人が今後ついて行くべき人について分別できるようになることを願います。

お願いします。

(ピカッと真理の力で変身)
では始めます。

(うわあ、なんか雷みたいの出てるし、がたい良くなったし、目つき変わってる…)
聖書は神の視点で書かれている

さて、先程お二人はヨシヤ王の話と似ているとおっしゃいましたが、ヨシヤ王の死についてははっきり理解していますか?

はい。
預言者イザヤの時代に神をより頼んでアッシリアを退けたヒゼキヤ王の後を継いで王位に就いたマナセとアモンは代々罪なき血を流し、かつ偶像に仕えて止みませんでした。
アモンは結局は謀反に遭って殺され、ヨシヤは八歳で王となったわけですが、ヨシヤは父と祖父が行ったその悪を除き去ろうと偶像を徹底的に破壊して回りました。
その後神の宮を修繕し、律法の書が発見されるやいなや悔い改め、その後も神様がエジプトからイスラエルを導き出されたことへの感謝を表す過越しの祭りを復興させるなど神様を喜ばせることを多く行いました。
後にも先にもヨシヤのような王は起こらなかった
列王記下23:25
とあるとおりです。

しかしある時エジプトからネコ王がカルケミシュを討とうとユダを通ることがあって、ネコは「私と共に神と争うことをやめよ。あなたが滅ぶことになる」とヨシヤに告げました。
ヨシヤはその場では聞き入れるものの、結局は鎧を着て再び出て行ってエジプトの軍隊と戦って戦死しました。
これを見て「なぜヨシヤが死ななければならなかったのか」という疑問を持つ人がいますが、これはヨシヤが人を通して神様が働かれることを分からず、かつモーセ以前のエジプトでの隷従の記録からエジプトに先入観を持っており、神様に祈らずに人の話に耳を傾けて心を翻したことの結果でした。

お二人とも、エクセレント。
このヨシヤの失敗が実は歴史的にイエス様を迎える土台を損ねたこともまたNHCの聖書講座で時折紹介されますね。
似たような話として、バプテスマのヨハネについてもその「殉教」が不条理だと疑問視されてはいるものの、実はヨハネ本人の人間的なつまづきが原因でした。これについては後日機会があればまた話しましょう(詳細はこちら)。
ここで言えることは、聖書は人間的には理不尽に見えるような話もありますが、目的のために歴史を導く神の視点で書かれていることを意識すると説明がつくことがあります。
ついて行く人を逃さないこと

ではヨナタンの話に戻ると、彼もまたダビデのもとに下る機会は再三あったにもかかわらず最後までサウルのもとに残った結果として死ぬ運命に遭ったと見ることができます。
事実ヨナタンは何度もダビデのもとに下ってきて接触していますが、父であるサウルのメンツのためか、結局ダビデとは離れて行動していたのです。

言われてみれば、ダビデに食料と武器を与えたとして謀反の罪で殺された祭司アヒメレクの息子アビヤタルに関しては、ダビデのもとに逃げた後、ダビデから「私のもとに留まっていなさい」と言われて終始行動を共にした結果として死なずに済んでいますね(サムエル記上22:23)。
アビヤタルのみならず、ダビデについて回った人々のうちで害を受けて死人が出たという記録は聖書にはありません。

いかにも。
とはいえ、イエスの時代は最後までイエスにつき従った人々は、イエスと同様に肉では殉教して霊で救われました。
このように肉であれ、霊であれ、神が共にする使命者に付き従うことで命が得られるということです。

そう言えば、NHCが属するキリスト教福音宣教会を創られた鄭明析牧師が
この時代は殉教することはないから楽でいい
っておっしゃってました。

はい、今はそのような恐ろしいことはありません。
ですので、今はそうした危険を考えなくてもよいので、日々神に祈りつつ、誰が神が共にされる者であるのか、誰が神に遣わされた者であるかを見極めることに専念すればよいのです。
ついて行く人を見極めるためには

ついて行く人を見極めるために大事なことは何かありますか?

バプテスマのヨハネが獄中からイエスに「あなたがキリストか」と尋ねた時、イエスはこのように答えられました。
盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである。
マタイによる福音書11:5-6
すなわちそこには癒やしの奇跡があり、何より人々を力づける福音があるのです。

いろいろな人がキリストを自称する可能性もありますよね?

左様です。
しかし、新しい時代に再び来られるキリストが持ってくる福音が備えるべきものについてはパウロがこう言っています。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
コリント人への第一の手紙13:12
このように、その福音はこれまで明かされていなかった聖書の秘密が解かれなければなりません。
さらに言えば、キリストはクリスチャンの救い主ではなく世界中の人の救い主であり、したがって聖書のみならず世界中でキリストについて存在する預言を成さなければなりません。時に適っているかも重要な判断要素です。これらについてはまた機会があればお伝えします。

なるほど、時については知りませんでした。聖書にも時に関する預言がありますから、やはり聖書を正しく学ぶことが重要ですね。

というわけで、今後も聖書を学び、もし該当する人がいた場合はその生い立ちや境遇につまづかないように祈りましょう。