飼い猫になった野良猫
母は猫好きだ。近所の野良猫がそのままうち(実家)に居ついた形で、現在3匹の猫を飼っている。その中の1匹は、この何年か時々餌を食べに来ては去っていたのだが、2か月ほど前のある日を境にうちにそのまま居つくようになった。
黄色い毛の雄猫で年齢は10歳くらいだろうか、母はその猫に「きいちゃん」と名付けてかわいがっている(写真の猫は、きいちゃんではありません)。
野良猫というのは自由を謳歌しながらもその生き方は本当にたくましい。猫好きの家を見つけて、その家ごとに違った名で呼ばれながら日々の糧を得ている。夜はどこで寝ているのだろう、寒い日はどうしているのだろうと人間の哀れみの情をくすぐりながら働かずして自由に生きているとも言える。
2か月ほど前のある日、「きいちゃん」はいつものように餌を食べにうちにやってきた。しかし、この日は食べた後も立ち去らなかった。
母がうちの駐車スペースに猫たちのために作ってやった猫ベッドに収まってずっと寝ている姿を見て、家族は「きいちゃんは死ぬんじゃないか」とやきもきしたそうだ。母は、これまでひいきにしてもらっていた人が犬を飼い始めたのだろうか、寝起きしていた場所が駐車場になって居られなくなったのだろうかとその身の上を案じた。
以来、母は「きいちゃんもうちの子になった」と喜んで、私と電話で話すたびに様子を教えてくれる。皮膚病を患っている「きいちゃん」のために動物病院で薬をもらってきて、餌に混ぜて飲ませていることや、薬が効いてきて毛が抜け落ちて皮膚がむき出しになっていた部分に産毛が生えてきたことも教えてくれた。
実は町内でも可愛がられていた猫
先日、母が玄関先で「きいちゃん」に餌をやっていたら、うちの前を通りかかった見知らぬご夫婦から声を掛けられたという。そのご夫婦は、うちからバス通りを挟んでちょっと行ったところにお住まいで、これまで時々「きいちゃん」に餌を与えていたという。暫く姿を見なくなったのでもう死んだかと思っていたそうだ。
また、同じ町会の猫好きのお母さん方からも同じように、「姿を見なくなったからもう死んだと思っていたけれど、元気で安心した」と言われたと母が電話で嬉しそうに話してくれた。
神様はいつも私たちに手を差し伸べてくれている
この「きいちゃん」は人間たちのために何をしてきたわけでもないし、特別な美猫でもない。けれども、こんなに多くの人たちから愛を受けていたということを知って、ある聖句が思い出された。
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
マタイによる福音書6:25-26
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにはるかにすぐれた者ではないか。
私たちが大変な時やつらい時、神様は隣で手を差し伸べてくださっている。ある時は状況を通して助けてくださり、またある時は人を通して働いてくださっている。そんな神様の愛を忘れることなく、感謝の人生を生きていきたいと思った。